遠い空

 

 

 

 

辺りから聞こえてくる蝉の声。

蝉たちは今どのような想いで鳴いているのだろう。

何年もの間、土の中ですごしてきて。

暗い世界から、この明るい空の下に出て、何を思い、何を求めて。

空を見上げる。

雲ひとつない蒼く、高い、夏の空。

遠い空。

遠すぎた空。

     

 

 

太陽が世界を焦がし、その熱を喜ぶかのごとく蝉が鳴く。

普通の人ならばそれだけで気が滅入ってしまいそうな世界の中で楽しそうにしている人間はおかしいと思われてしまうのだろうか?

俺は、そうは思わない。人の好みはそれぞれなのだから。

たとえば寒いなか雪が降っているというだけで子供は外に飛び出ていく。それといっしょだ。

違うとすれば雪は珍しいことだけど晴れることは珍しくない、それだけの差だと思う。

俺は子供ではないが。

それに、晴れた日は散歩することができる。

暑い寒いに関係なく、ただ外に出て気の向くままに歩く。雨や雪の日にもできないことはないだろうけど、そんなことをするのは物語中の傷心の主人公やヒロインだけで十分だ。俺はやりたくないし、やらない。

だから晴れた日がいい。

遠くの町まで出かけていくのもいいし、近所を散策して今まで気づかなかったものを発見できるのもいい。それが気持ちいいし、楽しい。気に入った場所で昼寝をするのも好きだし。同年代のやつらに「年寄り臭い」といわれる趣味であったとしても、だ。

それに、この趣味のおかげであいつに会うこともできた。

 

 

 

 

晴れた日に散歩に出かけることはよくあることだ。しかし、それは『ウォーキング』であって『トレッキング』では決してない。

「あー、暑いのもやっぱ適度がいいな。こりゃ」

どうしてこうなったのかというと、夏休みに入ってまとまった時間が取れるようになり、俺はよく電車などを利用して遠くに散歩と称してハイキングに近いことをやりに出かけまわり、結果なけなしの小遣いは激減しもうこれ以上はヤバイ、というところまできていた。

だあら近くにある小高い丘である軒昂(けんこう)の丘自然公園の遊歩道を散歩ルートとして決め、のんびりと歩いていたところふと、たまたま少し大きめの木が目に付き、そこに向かって小道があるのを発見してしまったのが運のつきだった。

その木が生えているところ間で伸びていると思われた遊歩道は実は獣道だったらしく気づいたころにはもうどう歩いてきたのかわからないような状態になってしまっていて後にも引けず、とりあえず目的地の木を目指したほうが無難と考え、山道を歩くことをきめた。こうして山登りのまねごとをしなければならなくなったわけだ。

近所の丘で整備されている公園といっても全部が整備されているわけじゃなくて、一歩順路から外れるとそこはもう『森』といってもいいような状態だ。いけると思ったところが3メートルくらいの崖になっていて登れずに迂回する羽目になったり、生い茂った木の枝で視界が遮られて目的地を微妙に見失ったりと、まあ踏んだり蹴ったりだ。

友人から「もう少し後先考えてから行動しろ」と耳にたこができるくらい言われた言葉を思い出しながら、これからはそうすると心の中で謝罪を入れながら歩きつづけること約一時間。ようやく目的地に着くことができた。

目的地とした木の下は他の場所に比べて幾分か視界が開けていて、辺りを見渡すことができた。この丘の頂上とも言える場所には展望台が設置されていて町を一望することもできる。そこのようには見渡すことはできないもののここから見える景色もなかなかのものだった。町の様子をある程度観察することもできそうだ。それでも町から結構はなれているようで聞こえてくるのはちいさなエンジン音(もともと交通量の少ない町だが)。それに木の枝がちょうどいい感じに日陰を作ってくれているので適度に涼しい。

周りから聴こえてくる蝉の大合唱を差し引いても昼寝をするには絶好の場所だ。

ちょうど昼飯時だったのでいつも散歩のときに持ち歩いている愛用のリュックの中から昼飯のおにぎりを取り出しかじりつく。三つほど食べ尽くし、水筒のお茶を飲み終えて、人心地ついたところでその場に寝転がりボーっとすることにした。

真上には生い茂った木の枝が広がっていて木漏れ日が顔にあたる。心地よい風が吹いている。木の葉が擦れあう音。さっきまでは聞こえてこなかった子供のはしゃぐ声が聞こえる。

思いのほか広場が近いかもしれない。帰りは楽できそうだ。

そんなことを考えながら俺は眠気を覚えた。

それに抗うこともなく、蝉の大合唱と木の葉が歌う唱を子守唄に俺はすぐに眠りに落ちた。

 

 

 

「くぁ〜。よく寝た」

目がさめたのはすでに日がずいぶんと西に傾いていて空に浮かぶ雲が赤く染まっていた。

寝始めたのが昼過ぎ頃、夏至を過ぎているとはいえ日はまだ長いからそこから考えるとずいぶんと寝ていたようだ。

思いのほか長居してしまった。予定では日が傾く前には帰ろうと考えていたから急いで帰ろうと思っていたけど、今現在いる場所を思い出しサーっと顔から血が引くのを感じた。

今いるのは小一時間の山登りをしてようやくついた場所なのだ。広場が近いかも知れないがその場所の正確な方角はわからないし、聞こえていた子供の声は既に聞こえてこない。

無闇にやたらに動き回って近所の山で遭難などばかげた記事で地方紙の三面になんて載りたくは無い。

だからといって、うだうだしていても埒があかない。昼寝前に聞こえてきていた声のだいたい位置を太陽の位置から何とか思い出す。

腕時計を着けていないから正確な時間はわからない。しかし、もうじきあたりが暗くなる時間であろうことは確かだ。今でさえ生い茂った木の枝のおかげで足元は薄暗いというのにこれ以上暗くなってしまったら歩くことすら困難だ。

(よし、行くか)

自信は無いが行くしかない。日が出ているうちは方角もわかる。最悪の事態にはなりはしない。自分に言い聞かせながら歩き出そうとしたところで背後から声が聞こえた。

「どこ行くの?」

「広場まで」

「じゃあ、そっちじゃなくてこっちだよ」

と今まで向かおうとした方向とはまったくの正反対の方向を指し示す。そこにはしっかりと見ないとわからない程度の小道があった。

「この道を使えばすぐに広場に出れるよ」

「ほんとか?」

「うん。何時も使ってるからね」

何時も使っているという何時もがどれほどのものかはわからないが少なくとも適当に歩き回るのよりかはましなことは確かだろう。

「ありがと。助かったよ」

「どういたしまして」

帰り道を教えてくれた親切な人にお礼をいい立ち去ろうとする。

「て、ちょっと待て。あんた誰だ?!」

よくよく考えてみたらここに誰かが居るというのもおかしな話であい、自分が昼寝に入る前(といっても三時間以上たっているけど)には誰も居なかったはず。

「あれ、ようやく気づいた?」

そう言いながら相手はいたずらが成功したときの子供のような無邪気な顔をしながら笑い出した。そしてひとしきり笑った後に

「おはよう。よく寝れた?」

 

 

 

 

いつもどおりの林道をとおって、広場に出る。

人っ子一人居ない。

夏休みに入っているのに小さな子供一人居ない。

去年のこの時期にはたくさんの子供たちがはしゃぎまわっていたのに。

その広場を一瞥していつもどおりに教えてもらった脇の道に入っていく。

あの日に見つけて、俺には欠かせない場所になったところにむけて。

 

 

 

 

近くに人の気配を感じて目を開ける。最初に視界に入るのは木の葉の隙間から漏れてくる光。その光をまぶしく感じ目を細めながら辺りを見渡して見えてくるのは遠くて近い町並み。それからここ最近知り合った女の子−安曇だった。

「あれ、起こしちゃった?ごめん」

そういいながらすぐ近くに座り、同じ枝垂桜−いま俺がもたれ掛かっている木の幹にもたれ掛かる。

「今日は意外にはやかったな」

「うん。なんか気が乗らなくてね」

最近天気のよい日はこの場所で時間をつぶすのが習慣となってきていた。午前中は近くの街中、もしくは遊歩道を散歩してからこの場所に来て町を見下ろしながら本を読むなり昼寝をするなり。相変わらずの暑さだがそうは苦にならない。

そしてこの場所にくるとたいてい安曇に会う。

はじめてきたときにこの場所で遭難しそうな俺を助けてくれたのがこの安曇だった。何でも昔からこの場所へはよく来るらしく前回教えてもらった道も何度も同じ道をとおるために出来てしまったらしい。この木が枝垂桜だとという種類の木だということを教えてくれたのもこいつだ。花の咲いていない桜の木なんて見てもよくわからないからここによく来ているというのもうなずける。

最初会ったときにはこんなところに一人で居るよなやつなので相当根暗なのかと考えていたら(本人が聞いたらおまえが言うなと怒られそうだが)そんなこともなく、なんとなく馬が合ってしまって現在にいたるというような状況だった。

「でも、やっぱ外は暑いねー。図書館の中から出てくると余計に暑くてたまらないよ」

顔に滴る汗を持っていたタオルでぬぐいながら恨めしそうな視線を空に向けながら安曇がぼやく。

「特に今日は暑いからつらいだろ」

そういい今日の予想最高気温を教えてやる。それを聞いた安曇は心底嫌そうな顔をしながら勘弁して−とずるずるとずり落ちてそのまま地面に仰向けに寝転んでしまった。とても年頃の娘さんがするようなことには見えないが黙っておく。

「相当お疲れのようだな。うまくいってないのか?」

「うーん、ちょっとね」

なんか行き詰まっててね、とぼやく。

「なんか、やってもやっても頭に入ってこないというか、やってることに自信が持てないというか。わかんなくなっちゃてね」

そっか、と俺は軽く相槌を打つだけでそれ以上は答えなかった。

自分が体験したことのないものに口出しせるものではない。

安曇は受験生。つまり受験戦争真っ只中にいる先輩になる。

それでも自分の学校で見かけたことがない旨を伝えると帰ってきた答えがなんと安曇はここから電車で一時間の結構有名な進学校に通っているのだという。

俺の通っている高校に比べるとレベルの差は月とすっぽんとまでは行かないまでもかなりの差がある。

そんな学校の受験生さまが何でこんなところにいるかというと息抜き来ているというのが本人の弁だ。その割には俺にはかなり長時間居座っているように感じられるが、校内でも家でもみんな神経質になりすぎててこういった一人になれるところに少しでも長く居たいのだそうだ。最初は邪魔じゃないかと考えそう聞いたのだが、それほど気にしなくてもいいといわれたので今も俺はこうやって足を運んでいるが。

「はぁ〜。祐、覚悟しときなさいよ。来年は我が身なんだから」

「肝に銘じとくよ」

軽く受け流し読みかけだった文庫本を取り出す。本を開けたところで安曇がぬっと手を伸ばしてきて本を奪っていった。

「何すんだ、あんたは」

「隣に人が居るんだから自分の世界に入り込もうとしない」

「じゃあ、どうしろってんだ?」

「なんか話そうよ。昨日何があったとか、昼間こんなの見たとか」

「昨日もあってるし、午前中は街中をぶらついただけでたいした発見もなかった。だから話すこともない」

つまんないー、とつぶやきながら奪った本をぱらぱらと飛ばし読みしている。

その様子を見ながら本を奪い返えすのも面倒になりため息をつきながら寝なおそうかと体勢を崩す。

「この本、なんて題名?」

腕を頭の後ろで組んで本気で寝る体勢に入ったところで不意に声をかけられた。

「表紙見ろ」

「『虹見の丘』?どんな話?」

「なんで?」

「なんとなく」

さっきの読み方からどこに興味を引かれたのかはわからないけどどうやら本の内容に興味を持ったようだ。

面倒くさかったが仕方なく大まかな概要を教えてやる。

簡潔にいってしまえば夢を持った少年がそれに向かって慢心していく。しかし、不幸な事故によってその夢の道をたたれてしまう。絶望のふちに立たされた少年は荒れてゆき、何もかもを投げ捨ててしまう。そんな少年を救ったのはすぐそばにいた少女で、その子の支えで立ち直りもう一度歩き出す。そして奇跡は起き、夢はかなえられる。そんなよくある単純な話だと薦めてきた友人には聞いている。

安曇は説明を聞いてふーん、気のない返事を返しただけだった。見ると本の最後の方をじっくりと読んでいる。

今日も長い息抜きになりそうだなとため息をひとつつき視線を元に戻して流れていく雲をボーっと眺める。

雲はゆっくり、本当にゆっくりと流れていた。進んだと思ったら、瞬きをするとまた同じ位置に戻ったような錯覚をおこすほど、ゆっくりと。周りから聞こえてくるのは蝉の声と、葉が擦れる心地よい音だけだ。

「ねえ」

不意に雲の流れを追うのに没頭していた俺に声がかかった。

「この話みたいにさ、なんでも最後にはハッピーエンドが待っていると思う?」

安曇はこっちを向いてはおらず、じっと文面を眺めていた。いつもとは違う、真剣な声。ここ数日しか会ってはいないけど、初めて見る一面だった。

「なんで、そんなこと聞くんだ?」

「変かな?」

「どうだろ?」

何時もと違う感じのする安曇に正直変な感じはしている。しかしそれが質問自体が変につながるかどうかはわからない。

「質問の答えだけど、わからない。幸せになる人も居るだろうし、不幸になる人も居るだろうし、報われる人も居るだろうし、逆もいるだろうし」

俺の答えを安曇は真剣に聞いている。自分より年下のやつの考え方など何の役にもたたないだろうけど。

「信じたものは救われる。信じてがんばれば必ず叶う。そんなこと言う人も居るけどどれだけ頑張ったって届かないものはあるんじゃないかな。やってみなければわからない。だからといって出来なかったからもう何もしないじゃ、本当に何も出来ないと思う。それに、怖がってやる前からあきらめてたら何も得られないとも思う。なに言ってるかわからなくなってきたけど、つまるところやってみようぜってこと。結果考えるのは自分の行動が他人に及ぼすことくらいにしなきゃ疲れちまう」

気楽にいこう。そう締めくくった。途中から質問の答えなのか自分の考えなのかわからなくなってたけど、言いたいことは最後の一言だけ。それが伝わればいい。

「気楽に、か。それが一番難しいんだけどな」

気楽が難しい?

怪訝に思って見返すと安曇は苦笑いを浮かべ、なんでもないと手を振った。

「それより、なんでそんな風に考えるのか気になるな。どうしてそんなこと考えるようになったか教えなさい」

何時もの調子に無理やり戻しているような感じがした。けれども隠そうというのなら俺が深く追求することもない。

俺たちはまだそこまで深い間柄じゃない。

 

 

 

 

いつもどおりに木の幹に背を預けて地面に直接座る。

そこから見える景色はあのときから比べて若干の変化があった。

ビルが増え、町の見通しが悪くなった。

そのことを寂しく思いながら目を伏せる。

 

 

 

 

「なんか今日町に落ち着きがないんだけど、何かあるの?」

今日も今日とていつもの枝垂桜の下で無駄に時間をつぶして、いつもどおり安曇がやってきて開口一番こんなことをいってきた。

「落ち着きがない?町が?」

「うん。なんかみんなそわそわしてるっているか、何かが待ち遠しくてうずうずしてるって言うか、そんな感じ」

そういわれて何かあったかと考えてみる。俺自身もそうは詳しくはないが思い当たるものがあった。

「そういや、今日は祭りの日だったな」

「お祭り?」

目を輝かせながら聞き返してくる。

「あ、ああ。そんなでかいものでもないけど、出店とかもでるし、山車も出て結構賑わっていた気がする」

安曇の雰囲気になぜか圧倒されながら答える。

「ふーん、お祭りかー」

なんか考え込んでる。この二週間近く毎日顔を合わせていたからなんとなくこの後の言動も予想がつくようになった。

(行こう。なんていいだすんだろうなー)

表情に出さずに嘆息する。あまり騒がしいところは好きじゃないからこういった辺鄙なところで時間をつぶしているんだから。

「どおりで」

そうつぶやいただけでいつもどおりの場所に腰をおろす。

「何よ、その顔」

「いや、なんていうか」

どうやら意外そうな顔をしていたようだ。

「おまえならお祭り行こうなんていいだすかなって思ってたから、意外だなって」

「そんなイメージある?」

そんなに意外だったのだろうか驚いたような表情で聞き返してくる。

「ああ、イベント好きな騒がしそうなイメージがあるけど」

そっか、と短くつぶやいただけでこちらも見ずに肩を落としつまらなそうな顔をして遠くの町並みを眺める。

「あまり、ああいう人の多いところ、好きじゃないんだ。今みたいに少人数でいるほうが好き」

そっちのほうが、なんか安心するし、と続けた。

いつもどおり蝉の声、そしてそれに混ざって微かだけど町のざわめきが聞こえてくるような気がした。

「そっか」

「そうなのよ」

「なんとなくわかるな。俺もああいった騒がしいところは得意じゃないから」

楽しめないわけではないけど、どうしてか疎外感を感じてしまう。仲のいいたくさんの友人といても、その人たちが遠くにいるような、見えない膜で隔たれてるような、寂しい気持ちになる。

感じていることをなんとなく正直に口に出す。どうしてこんなことを話す気になったかはわからないけど話したい気分だった。

「結局、消極的な寂しがり屋なんだよね。私たち」

この考えを言うと安曇は同意をしてくれたのと同時に、こんなことを言った。

「そういうことになるな。情けないことだけど」

独りでいたいといって、こっちを構ってもらいたいと駄々をこねるガキだという事は自分が一番知っているから自嘲気味にいう。

「でも、それもひとつの自己顕示で、それを理解してくれる人もいるんだからいいんじゃない?私が祐を理解して、祐が私を理解してくれたみたいに」

だからそう悲観することもないんじゃないと笑った。

確かに、似たもの同士が集まればガキのわがままじゃなくて自己顕示になるのかもしれない。

「そうかもな」

遠くから囃子の音が風に乗って聞こえてくる。

その場所には加わらないけれども俺たちはその雰囲気を楽しんだ。

二人でいつも通りの止め処もない会話を続けながら。

安曇はいつもよりも長い時間この場所にいた。

俺はそのことについては大して触れなかった。

日が暮れ始め、囃子の音も小さくなり始めたころ解散となった。

 

 

 

 

夏休みも終わり学校も始まりだし、夏休みのように毎日軒昂の丘に行くようなことはなくなった。それでも土日の天気のいい日はそこで暇をつぶしに散歩と昼寝に訪れるようにしているが、安曇の方はいろいろと忙しいらしく、会う機会は減っていた。

 

「あー、めんどいな」

季節はもうすっかり秋といっても差し支えがないほど気温が下がり、学校の制服も夏服から冬服へと衣替えをしている生徒もちらほら見かけるようになった。

丘のほうも紅葉が始まっており後数週間もすれば見頃だろう。

そんな中、俺は教室の窓の枠にもたれかかりながらぼやいていた。

「ぼやくな、祐。俺も面倒臭い」

ひとつ後ろの席の隆司が声をかけてきた。隆司の方は席にしっかりと座っていて、机の上には一枚のプリントが置かれていた。

進路希望調査。

面倒臭いというのは、それを書き込むことだ。

「なんでこんなもん書かなきゃならんのかね」

「もう半年もすれば俺たちも受験生だ。それでだろう」

受験生。もうすぐそうなるということか。

−祐、覚悟しときなさいよ。来年は我が身なんだから

そう安曇がいっていたのを思い出す。

「そうなんだけどな」

いわし雲が浮かぶ秋の空を見上げながらつぶやく。

進路。受験。

先だと思っていたものでも意外とすぐにやってくるものだ。

「決めるのが早ければ早いほど後々楽になる。だから早く決めろってことだろう。苦労してもいいから、もっとゆっくり決めさしてくれてもいいのに」

「ゆっくり決めたくても時間は待ってはくれないからな。いままでに長い時間が与えられてきたんだ。そうも言ってられない」

隆司も同じように空を見ている。夏の空とは違う、澄んだ空。

「冷静だな。そういうおまえは決まってるのか?」

「決まってたら、もう出してるさ」

そういって苦笑いを浮かべる。確かに、こいつならそうするだろう。

それから廊下側の席から別の友人に呼ばれて席を立った。

「祐、おまえは後先考えずに行動するから、しっかり考えとけよ」

「うるせえ。ほっとけ」

隆司がいなくなった後、俺はどうしようか迷っていた。就職するのか、進学するのか。それとも。

 

放課後。

ふと気が向いていつもの帰り道とは違う道を歩いて軒昂の丘に立ち寄ることにした。

なんとなくここにくれば安曇に会いたい気がしたからだ。

以前、話をしていたときに学校帰りにここによって帰ることがあるということを聞いた覚えがある。だから、ここで待っていれば会えるのではという希望的観測からの行動だった。

いつもどおりに坂を登っていき広場に出る。そこから脇の道には入らずに近くのベンチに腰を下ろす。

最近は枝垂桜の下も毛虫が増えてきて木の下で昼寝をするようなことは少なくなっているが、この広場では人が多すぎて落ち着けないためにあの場所で本を読むことが増えてきている。だから、この広場のベンチに座るのも久しぶりだ。

もう日が落ちるといった時間なので人はほとんどいない。

辺りからは虫の声が聞こえてきてくる。

こんな時間に女の子が一人でこんなところを歩かないだろうなーと思いながらもそこからは離れようとせず、途中の自販機で買ってきた缶コーヒーを飲む。

飲みながら会ってどうしようと思っていたのか考えた。

進路のことについて相談しようとしていたのか?

今どんな調子なのか聞こうと思っていたのか?

あるいは別のことなのか?

一番初めに上がった答えが正解の気がしたのだが、何か腑に落ちないものがあった。

考えがまとまらないまま缶コーヒーを飲み干してしまい手持ち無沙汰になり、そろそろあきらめようかなと考え始めたころ、足音が聞こえた。

「あれ、祐。ひさしぶり」

そこにいたのは待っていた安曇だった。

「まあな」

「初めてだよね。この時間に会うのは」

「ああ」

いつもは休日の昼とかにあっていたからこの時間は初めてだ。

お互いの格好も学校の制服だ。

「それで、どうしたの?まさか私を待っててくれたの?」

安曇が冗談めかして言う。

「いや、なんとなくだ」

図星だがそれを表に出さずにいつも通りの調子で返す。

「それもそっか。でも、びっくりしたよ。なんか人がいると思ったら祐がいるんだもん」

それを受けてか安曇もいつもの調子で返してくれる。

いつもどおり。あの夏の日に出会ってから続いてきた関係。

それに心地よさを感じる。

「なによ。にやにやして。思い出し笑いはいただけないわよ」

どうやら顔に出ていたらしい。

「悪い。それより、捗ってるか?勉強の方」

変に勘ぐりを入れられても面倒なので、適当に話題を変える。けどその瞬間に安曇は今までとは打って変わって暗い、怒ったような表情になった。

「あのさ、あんまり話題にあげないでよ」

「ああ、悪い」

雰囲気が悪くなった。たった一言でさっきの居心地によさは微塵も感じられなくなってしまった。

互いに無言。辺りはさっきよりも闇が濃度を増し、街頭が明かりを灯しだす。

居心地の悪さにこのまま立ち去ってしまいたい気分になったが、それよりも先に隣に安曇が腰掛けてきて、どうにもタイミングを逸してしまった。

「ごめん、あたってもしょうがないよね」

沈黙を破ったのは安曇の方からだった。

以前、本のように最後は報われるのかと聞いてきたような、真剣な声だった。

あの時と違うのはもっと暗い感じを受けるところくらいか。

「なんかさ、うまくいかないんだ。どうしても。なにやっても違うような気がして」

弱弱しい声。普段受ける明るい印象などは感じない。

「違うような気がするって、どういうことだ?」

その印象に戸惑いながら聞き返す。

安曇は最初は渋っていて話そうとしなかったが、俺が引かないところをみてあきらめたように話し出した。

「やりたいって思ってそれを目指して頑張ってたんだけど、それがほんとにやりたかったことなのか、わからなくなったんだ」

「わからない?自分が決めたことなのに?」

正直に思ったことを口に出す。

それに安曇は曖昧にうなずいた。

「自分で決めたことか、どうなんだろ?お母さんに自分の好きな事やりなさいって言われて、それで進路に迷って、またお母さんににこれが好きだったんだからこれをやればって言われて、それに決めて。結局、わからないだよね。自分で決めたのか、他人に決められたのか」

やる気がなかったから、と自嘲気味に笑う。

「それでも、ほかに道がないから。もう、この道を進むしかないから。でも、進みたいのかも、別の道を行きたいのかも、わからない」

聞かなければよかったと正直に思った。

これから先、俺は進むべき道を見つけなければいけない。

そのときに、俺は自分の道を迷わずに見つけられるだろうか。

同じように、目標を持っていない俺に。

「ごめん、こんなこと祐に愚痴ってもしょうがないよね。自分の問題なんだから」

「聞き出したのは俺だから、謝らなくてもいい。謝るなら俺の方だ」

ここまで悩んでいるとも気づかずに、この話題に触れたことに対して。

「でもごめん。それとありがと。付き合ってくれて。少し楽になった」

安曇にはこんなことを言出だせる人は今までいなかったらしい。学校では以前話したら笑い話にされたそうだ。そんなこと悩んでるなんて、と。それ以来このことを話すのはやめたらしい。悩みを打ち明けれるような親しい先生もいないし、もちろん親にも言えない。

話したいのに、話せない。

そんなことがずっと続いていたという。

「なんて言うか、よく頑張れたな」

正直俺なら一ヶ月と持たずに音を上げるだろう。

そこまで悩んだこともないけど、嫌なことの一つや二つはある。

そういったときは隆司とか昔からの友人に愚痴をこぼして適当に自分の中で折り合いをつけていた。

それをただ内に溜め込んでいたとしたらどうなるかなんてわからない。

安曇は弱弱しく笑い、「もう、限界かもね」といった。

なにかあったかは教えてくれなかったが、今日も嫌なことがあったらしい。

その後、沈黙が続いた。

安曇は何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。

夜の帳は完全に落ちあたりはもう完全に闇に包まれている。

山の上ということもあり街頭は少なく、町並みからも遠いから余計に暗い。

俺たちはとりあえず山を降りることにした。

その道中。考えはまとまっていなかったけど、それでも言いたいことを口にする。

「俺は、まだ進路のことで追い詰められてないから安曇がどれだけ苦しいのかなんてわからない。自分の進む道をまだ見えてすらいないガキだ。だけど、親に進められても決めたのは自分なんだからそれは自分の意志なんだと思う。それが違うんじゃないかって思うなら、もう少し回り道をしていろんなことをしてみればいいんじゃないか。焦って急いだって周りのきれいなもの見落とすだけじゃないかって思うんだ。」

そこまで言って一息入れる。

歩を止め、後ろからついてきている安曇の方を振り返る。

「ゆっくり歩いて、しっかり見て、迷ったら人に道を尋ねて、そんな風に歩いていけばいつか目的地に着く。目的地なんてひとつじゃないし、間違った道を進んで見つけたものが最初のよりもいい場所だったなんてこともある。俺も道案内は出来なくても、愚痴くらいになら付き合える。だから、もう少し歩いてみよう」

じっと安曇の目を見つめる。力になれるとは思わない。拒絶されるのも覚悟している。それでも、倒れそうになっているんだから手を差し伸べたい。少しでも助けになりたい。

「今の道でも、ゆっくり歩けば何か見えるかな?」

安曇は目をそらし空を見上げた。つられて俺も空を見上げる。

雲に覆われていて空は暗い。それでも雲のないところには星が少しだけ見えていた。

「保証は出来ない。けど、見つかる可能性はある」

「無責任な」

「すまん」

視線を戻すと安曇がこちらを見ていた。

その顔はすこしだけ晴れやかな顔をしていた。

「もう少し頑張ってみるよ。ゆっくりとね。それでも、たまには愚痴を聞いてもらいたいときもあると思うから、そのときは嫌な顔をしないでしっかりと聞いてよ」

「ああ、大丈夫だ。まかせろ」

それなら責任は持てる。

「よし」

そういって満足そうな顔をした。いつも見ていた表情だ。

「それなら、いきなり聞いてもらおうかな。いい喫茶店しってるんだ、私」

雲行きが怪しい。

「いい喫茶店とは、愚痴とどんな関係が?」

「なにいってんの。こんなところで愚痴ってたら気分が落ち込むばかりでしょ」

嫌といっても聞きそうにない。せめてもの反撃として騒がしいところは嫌いと言って断ろうとしたのだけれども、自分も同じと言われここだけは例外だから大丈夫とまで言われてしまった。

ため息をひとつつく。

「わかった、付き合うよ」

「よし、祐の奢りね」

「待て、なぜそうなる!?」

この先、安曇がどんな道を歩くのか俺がどんな道を選ぶのかはわからないけれども、まあ独りで悩むよりかは幾分かましなのだろう。少なくとも、誰かは一人は傍で話を聞いてくれるのだから。

その後、お勧めの喫茶店にて二時間近く付き合わされ、その上本当にすべておごらされてしまった。

 

 

 

それからは、次第に寒さ厳しくなってきていたが、俺たちは相変わらずだった。

さすがに安曇の方はこの時期になると忙しくてそう出歩ける状態ではないらしいのだがそれでも気晴らしなどと称して出歩いているらしい。実際そうなっていてくれれば俺もうれしいが。

俺自身も進路のことについてしっかりと決め始めねばならず、そういったことで逆に相談するようなこともあった。

それでも、そういった重い話はあまりせず、気楽な世間話を散歩しながら話したし、以前行った喫茶店『ETANAL TODAY』で無駄とも思えることを真剣になって話し合ったりもした。

来年になったらあの枝垂桜の下で花見を一緒にしようとも約束した。

また、夜に電話をかけてくるようなこともあった。たいした用事ではないのだが、本当にいまこれをやっていていいのだとか、こうしていて言いのだとか、不安に思ったことを口に出して晴らそうとしているようだった。

俺に出来たのは、ただ根気よく話を聞いてやることだけだったが。

そうして日は流れ、短い冬休みに入るころになると、安曇とめっきり会わなくなった。

最初は忙しいためそう会ってもいられないだろう、そのうち会えるさ、と気楽に考えていた。それでも会えることを期待して枝垂桜の下に行ったり紹介された喫茶店に行ったりもした。

一週間、二週間、そして年が明けても会うことはなかった。

こんな長期間音沙汰なしという状態は出会ってから初めてのことでありさすがに心配になり、以前教えてもらった電話番号に電話をかけてみた。

電話口での安曇の声はいつも通りで、心配していた俺が損をしたような気分になるほどだった。

だから、安心していた。

そのうち、受験が終わったと言う連絡がきて前のように過ごせるのだと思っていた。

一月が終わり、二月が終わり。

そして三月。

俺が聞いたのは、

安曇が、

飛び降りたという話だった。

 

 

 

 

 

いつものように枝垂桜の幹に背を預けて座る。

あの出来事からもう二年経つ。

俺は無事に受験も終え現在大学に通っている。

安曇がなぜ飛び降りたのか?

先方の両親に聞いた話だと受験ノイローゼだとか。

目標としていた大学の受験で失敗し、その後もことごとく落ちて追い詰められていったのだそうだ。

浪人すればいいと思ったのだが、父親が厳しかったようで許さなかったらしい。

そして、最後の受験が終わったその日に、近くの歩道橋から飛び降りたのだそうだ。

その話を聞いたときには悲しいというより寂しかったことを覚えている。

なぜそうなるまで相談してくれなかったのか。

俺は所詮そこまで頼りがいのないやつだったのかと。

だから、俺はどういう顔をすればいいのかわからなかった。

安曇は生きていたのだから。

 

 

 

俺がなぜ安曇が飛び降りたという事実を知ることが出来たのか?

それは安曇が飛び降りた現場を目撃したのが、隆司の恋人の佐倉さんだったからだ。

俺は会ったことはなかったけど隆司たちと安曇はなんでも紹介されたETERNAL TODAYでの常連同士だったらしく顔なじみで、その上そこのマスターが俺の顔を覚えていたらしくそこから俺にも話が回ってきたのだ。

安曇が飛び降りたと聞いてから面会が許されるようになったのは二週間ぐらいかかった。

最初は意識不明の重体となっていたらしい。

それから意識を取り戻し、体調が安定して会えるようになるにはそれだけの時間が必要だった。

最初俺は安曇と会う気はなかった。

会った時にどんな話をすればいいのかわからなかったからだ。

本気で死にたいと考えた人にどんなことを言えというのか。

だけど、隆司をはじめとするまわりの人たちからの後押しにより会うことに決めた。

そういったことを経て、いまここに立っている。

葦野安曇と書かれたプレートが張ってある病室の前に。

事前にむこうの両親にも話が通してあるためか病室の中から話し声はしない。

つまり俺以外には誰もいないということだ。

ドアを軽くノックする。反応はない。そのまま一分が過ぎただろうか、その間待っていたけれどもまったく返事がなかった。

返事はなかったが、そのままドアを開ける。まず飛び込んできたのは葉を落としきった木と、典型的な一人部屋の病室の風景だった。

その部屋の中でもっとも面積をとっているベッドの上に、安曇はいた。

安曇の顔は以前に比べるとだいぶやつれていて、頭に包帯を巻いてうつろな表情で窓の外を眺めている。

まるで、俺が部屋の中に入って来た事にすら気づいていないように。

「久しぶり」

声をかける。安曇の表情にまったく変化はない。

言葉が続かない。聞きたいことがあるのにそれを聞いていいのかわからない。何を話し掛けていいのか、悪いのか。

最初に声をかけたままの体勢で立ち尽くす。

病室の外から聞こえてくるアナウンスの声や廊下を歩く看護師の足音。あたりからはいろいろな音が聞こえてきたが、ここだけには静寂が漂っていた。

どれくらいの時間が過ぎたのかはわからない。

十分だったのかもしれないし、一時間あるいはそれ以上の時間が過ぎたのかもしれない。

俺はベットの傍らにあったいすに腰掛けて安曇といたときと同じようにつまらない世間話を延々と続けた。

安曇は何の反応も見せなかったけど、それでも話しつづけた。そうしていなければ安曇はどこかに行ってしまうような、そんな気がしたから。

その翌日も、また次の日も、延々と。

そんな毎日を続けていたある日、俺は隆司にETERNAL TODAYに呼び出された。

指定された時間よりも少し前に店につくと隆司は既にカウンターの席に座っていて、俺の方に気づくと軽く手を上げて挨拶をした。

隆司の隣の席に腰を下ろし、いつもどおりにコーヒーを頼む。

「早かったな」

「ああ」

店内にはいつもどおりに静かなオルゴールが流れていた。曲名はわからないけど落ち着いた曲調が印象的なものだった。

「で、何のようだ?」

「まあ、そう急ぐな」

そういいながら自分の手元に置かれていた紅茶を飲む。俺もため息をひとつついてそれに習ってちょうど出されたコーヒーに口をつける。

「佐倉さんの様子はどうだ?」

隆司が話す気がないようなので今まで気になっていたことを聞く。

佐倉さんは安曇が飛び降りた現場を見て相当ショックを受けたと聞いている。

「ああ、大丈夫だ。だいぶ落ち着いてきてる」

「それならいいけど。おまえも大変だっただろ?」

 「まあ、な。でも、俺よりも千音の方が大変だし、結局俺に出来るのは手助けだけだから。俺がまいっててもしょうがない」

そういって少し寂しげに笑う。

「まあ、こっちはなんとかなりそうだし大丈夫だ。それより祐。おまえの方が大変だろ」

こっちが本題だ、といって俺の方に向き直る。

大体予想のつくことだったから驚きもせずに冷静に、現状を説明する。最初に少し話すことに対して躊躇したけれど、それでも話を聞いてもらいたかった。

信頼できる誰かに。

「そうか」

大体の状況を話し終えたあと隆司が言った言葉はそれだけだった。

俺自身も何かを期待していたわけではない。

ただ、今まで溜め込んでいたことを吐き出せて少し楽になれた。

「用件はそれだけか?」

俺が問いかけると隆司は軽くうなずいて答えた。それを確認するとカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干し席を立つ。

「今日も行くのか?」

レジに向かおうと席を立ったところで隆司が声をかけてきた。

「それしか出来ないからな」

顔だけを隆司の方に向けて答える。

安曇の両親は共働きらしく娘がこんな状態でもあまり会社の方を休めないようで昼間はほとんどいない。だから、変わりになるつもりはないが俺がそばにいてやりたい。

「そっか、じゃあ行って来い」

「ああ」

俺は会計を済ませて店を出た。

外に出ると空はどんよりと曇っていて気分を重くする。

病院へと向かう道の桜並木はすでに花が開き始めていた。知らずのうちに時は流れ春はやってきている。こんな簡単なことに気づかないことなんて今までにはなかったことだ。それだけ俺も追い詰められていたんだと実感する。

単純かもしれないけどそういった意味でも今日の隆司との会話でどれだけ楽になれたのかがわかった。もしかしたらそういった意図があって呼び出したのかもしれない。

(相当気を使われてるな)

そう考えて少し苦笑いする。

それとも見てもいられないほど弱っていたか。どちらしろ感謝しなければいけない。

いつもどおりに受付に行き、いつもどおりに病室に入る。

その中でいつもと違うことがおきた。

まず普段開いていない病室の窓が開いていた。この天気で開け放っていても気持ちいいものでもないと思うのだが、空気の入れ替えという意味だろう。

そしていつもはベットで横になっていた安曇が体を起こしていた。

その顔は相変わらず窓の外を向いていて、入ってきた俺のことなんて気づいていないようだったが。

「起きて大丈夫なのか?」

僅かに希望を込めて声をかける。でも安曇からの反応はなかった。

たいした期待ももっていなかったから、落ち込みはしない。

いつも通りのこと。もう既に、この状態に慣れきっている。

「今日の天気はあいにくの曇りだけど、こういった天気は花曇って言って桜の咲き始めるこの時期ではよくある天気なんだって。季節とか地方によっては呼び方も変わるらしいけどな」

安曇と一緒になって窓から見える景色を眺める。

「実際、もう桜の花が咲きはじめてた。昔の人はよく言ったもんだ」

それだけ言って少し口を閉じる。ただ俺だけがしゃべり続けるんじゃなくて、相手が返事をする間を開ける。少しの間まって反応がなければまたしゃべり始める。それがここ最近続いている風景だ。

今回も何の反応もなく次はどんな話題を振ろうかと考えをめぐらせていると微かに何かが聞こえた。

それは、今にも消えてしまいそうなほど掠れていたけれど、確かに人の、安曇の声だった。

「どうして、ここに来るの?」

安曇は相変わらず窓の外を見ている。

「何で来るの?独りで居たいのに。誰にも会いたくないのに。もう何もしたくないのに」

その後はうわごとのよう、独りにさせて、放っておいて、かまわないでとつぶやいていた。

「安曇を独りにさせたくなかったから、俺はここに来るんだ」

俺に対する問いかけでなかったかもしれないし、聞こえてないかも知れない。それでも俺は答えていた。

「ここに来ることは迷惑だろうけど、それでも傍にいたい。疲れて独りになりたいのかもしれないけど、独りでいると嫌なことばっか考えて逆に疲れちまうだろ?それに休むのにしても誰かが傍にいるほうが安心できると思うから。だから俺は安曇を独りにしたくない」

俺の本心をそのまま言う。その言葉が届かないかもしれないけど。

病室の中が沈黙に包まれる。俺もしゃべらないし安曇がさっきまでつぶやいていたうわごとも止んでいた。

俺からはなにもしゃべられない。安曇が答えてくれる可能性は低い。だから、この沈黙は永遠と続くと思っていたが、不意にその沈黙は破られた。

「あなたは、嫌だ。私を傷つける。私を追い立てる。だから近寄らないで」

答えないと思っていた安曇が答えてくれた。

安曇に声は届いていた。それはうれしいことだったけどその内容に疑問を覚える。

俺が、追い立てる?

安曇を?

疑問に思ったことを聞き返す前に安曇は続けてこういった。

「私に歩けといった。ゆっくり歩けばいいものが見つかるとうそを言って。でも何も見つからなかった。きれいなものも楽しいものもうれしいものも何も。だから、あなたは嫌」

それは確かに俺が言ったことだ。初めて安曇が弱さを見せてくれたときに言った言葉。ゆっくり歩けば見落としていた何かが見つかるかもしれないと。

でも、それは俺が伝えたかったことの一部分だけだ。

「確かに、そう言った。でも勘違いしてる。ひとつの道をゆっくり歩けばいいって言ったんじゃない。たくさんの道を歩いてみろといったんだ」

おそらくあの時俺と安曇では違うところを到達点として考えていたのだろう

俺はまだ選ぶことの出来るたくさんの結果を。

安曇は今歩いている道の先にある場所、つまり疑問に感じ始めた目標を。

場所をもう既に特定しているから別の道にそれることが出来ない。だからいくら回り道をしても辛いまま。

確かにそういった意味では俺も安曇を追い詰めた要因の一つとなるだろう。

「今行く道に疑問を感じたら道をそらして別の道を行けば、時間はかかるかもしれないけどその道が正しかったのかそれとも違ったのかわかるし、自分が納得のいく結果は得られる」

あの時伝えきれなかった自分の考えをもう一度伝える。正確に伝わるかどうかわからないけど俺に出来ることはこれだけだと思うから。

「最初から行き先を決めて歩くのもいいけど、いろんな道を歩いて、自分が楽しいって感じる場所を探して歩くのも

風が吹き込んでくる。まだまだ風は冷たいが、それでも徐々に暖かくなってきている。

もう寒い季節は終わる。外に出て辛いと感じることもなくなるだろう。

「今は休んでいればいい。ずっと歩いてれば疲れるのはあたりまえだから。でも、いつかまた歩き出さなきゃいけない。それだけは絶対だ」

新しい道を歩き出すにはちょうどいい季節だろう。

安曇は答えない。こちらを見ることもない。

ただ静かに話を聞いている。

言葉が届いているのか、届いていないかもわからない。

それでも、ここまで深くかかわってきたんだから、少しでもまた歩き出す気力を与えたい。

たとえ結果的にまた追い込むような結果になってしまっても。

今やれることを、伝えたいことを伝えたい。

じっくりと待っても反応がないことを確認してから俺は椅子から腰を上げる。

「帰る。それと、俺はもうここには来ないから、安心して休んでくれ」

はっきりと本人の口から来ないでくれと言われたのだ。これ以上しつこく付きまとうのも悪い。それに一人でゆっくりと考えてみるのも悪くないのかもしれない。一緒に居てやれないのは辛いけど、それがどういった結果になっても俺は受け入れられる。

受け入れる。

ドアを開け病室から外に出る。ドアを閉める際に病室の中を見たとき安曇はさっきと変わらない様子でベッドの上にいた。

「言い忘れてた。もし、もう一度歩き出す気になって一人で歩くのが寂しいって感じたら、気軽に声をかけてくれ。俺でいいならいつでも、いつまででも付き合ってやるから」

言い終わると同時にドアを閉める。未練がましいのはわかっていたけど言わずにはいれなかった。完全に絆が切れてしまうことが怖かった。

この先、一人出歩くのが怖いと感じてるのは俺だから。

ドアの前にしばらく立ち尽くし、覚悟を決めて歩き出す。

病院を出て空を見上げると、桜曇の空に雲の切れ間が見えた。そこからは日が差し込んでいた。

その翌日からは病室によることもなく、外に出て散歩を主体とする生活に戻った。

安曇のことを放っておくのは気が引けたが行かないと言った以上行くわけには行かない。俺自身も今年は受験生となるのだ。まだ早いのではと思うこともないが始めることに早すぎることはないので勉強もやり始めた。そうやって無理やりにでも気をそらしておかないと一緒になってこのまま立ち止まってしまいそうだったから。

歩けと言う以上自分は少しでも前に行く姿勢を見せておかないと説得力に欠ける。

だからといって自分を追い詰めるようなことはしない。散歩はやめないし、隆司を呼び出して遊んだりもして、自分の思うようにゆっくりと前に進んでいく。

そんな毎日を過ごしていた。単調なようで充実した毎日を。

何日も過ぎ、春休みが終わり新学年となり桜が散りきってしばらくしたある日。

いつも通りの散歩を軒昂の丘に向かうことにした。

去年の冬からここには訪れていなかったから久しぶりに行ってみようと、ただなんとなくそう考えて丘を登っていく。

いつもどおりのルートを通り、最後には広場に戻る。そこから脇の細い道には入り枝垂桜の下にと向かう。

絶対に誰もいないだろうと考えて向かった先には予想外の先客がいた。

安曇がいたのだ。

安曇が、昔のように枝垂桜の下に座っていた。

近づいていってよいものかどうか逡巡していたところ向こうがこちらの気配に気づいたようで、こちらの方を向いた。

「久しぶり」

「あ、ああ。久しぶり」

本当に久しぶりに聞く声。もう聞くこともないと考えていた声だ。

突然の再会に俺はいまだにどうしていいのわからずに立ち尽くしていると、安曇が手招きをした。無視することも出来るがそれはせずにおとなしく従う。そのまま安曇の傍らに着くと今度はとなりの地面をたたいて座れと無言で催促してきた。

俺は一瞬戸惑いながらもそれに従い腰をおろす。そのまま二人で何もしゃべらずに過ごす。去年の夏にずっとここで見られた光景だ。

そのままの状態すごしていた。

聞きたいことはあったがたくさんありすぎてうまくまとまらない。相手が誘ってきたのだから向こうから切り出すのがいいんじゃないかと言う考えも浮かんできた。

そうやってなんとなく気まずい、それでいてどこ懐かしい雰囲気を感じながら気長に待っていると不意に安曇が口を開いた。

「何にも聞いてこないね」

「聞きたいことがたくさんありすぎてまとまらん」

正直に話す。とりあえずもっとも疑問に思うことを聞くことにする。

「いつ退院したんだ?」

「一昨日。ようやく退院させてくれた」

昔どおりの安曇の声。病室で最後に聞いたあのか細い声じゃない、しっかりとした声。

「それで、ここに来たわけだけどまさかこんなに早く祐に会うなんて思ってなかったな」

向かい合って話しているわけじゃないから、今どんな安曇がどんな顔をしているかはわからない。ただ、うれしそうな顔をしていないことだけはわかる。

「もう少し、自分の考えがまとまってから会いたかったんだけど、仕方ないか」

ため息が聴こえてくる。それから立ち上がった安曇が俺の正面に移動してきた。

「私ね、もう一度大学受験をしようと思うんだ」

その顔は晴れやかな顔をしていた。

「やりたいこと見つかってないけど、そんなに時間もないからゆっくりしてられない。就職しちゃうと、自由になる時間も少なくなると思うから、もし納得いかない仕事に就いてもどうしてもそのあとが続かない。だから、大まかな道筋だけを決めて、そこからまたゆっくりと決めていきたい」

大学にさえ入っちゃえばなんとかなるだろうしね、と気負いなく自然に笑う。

「去年と同じことをしようとしてるけど、今年は私のやりたいことを探す。誰かに用意された目標じゃなくて、自分で選んで納得して歩いていける目標を見つけるために」

そういってゆっくりと町のほうを向く。

「ゆっくりと、時間がかかってもいいから自分のペースでゆっくりとね」

こんな考え方はあまいかな?と、自信無さ気に聞き返してくる。

「いいんじゃないか。俺も今似たような感じだし」

自信を持って今の道が正しいかなんて言えない。ただ、この道を歩いていけば納得のいく場所にたどり着くんじゃないか。そんな漠然とした考えで歩いているんだから。

「そっか、ありがとう」

そういって振り返る。安曇はとてもうれしそうな顔をしていた。

その顔を見て、俺もうれしくなる。今まで長い間なくなっていたものが戻ってきたんだから、うれしいに決まっている。

それと同時に寂しくなる。安曇は自分の歩く道を見つけた。そこには俺の入る余地はない。

もう俺がこいつと一緒にいる理由はないから。

「それと、もうひとつ」

考えを悟られないようにどう言葉を返そうかと考えていたところで安曇がもう一度口を開いた。

「この先、頑張っていこうと考えているんだけどやっぱり一人だと辛いと思うんだ。だから、となり誰かいてくれると嬉しいんだけど」

そういって俺に向けて手を差し出す。

「私と一緒に歩いてくれないかな?」

照れくさそうに、それと少し不安そうな表情で。

俺はゆっくりと、しっかりと手を取る。笑いをこらえながら。

「喜んで、お供させていただきますよ」

なにを恐れることがあるのだろうか。

前にも言ったと思うけど俺なんかでいいならいつでもいつまででも一緒に歩いてやる。

俺自身が一緒にいたいのだから。

 

 

 

 

木の幹に座った状態でうとうととしていたらしい。首に何か冷たいものを引っ付けられて飛び起きる。そこにいたのはしてやったりといった顔の安曇だった。

「何しやがる」

「いたずらしたくなるぐらい気持ち良さそうに寝てる祐が悪い」

「なんだと?」

待ち合わせ時間に遅れてきたにもかかわらずまったく悪いと思っていないようだ。

じとっとした恨みがましい視線を向けているとごめんと一言言ってさっき首に当ててきた缶ジュースを渡してきた。どうやらこれで水に流せということなのだろう。

ため息を一つつきそれを受け取る。それほど怒っているわけでもない。

安曇はいま心理学を大学で学んでいる。なんでもカウンセラーになりたいのだとか。

それが安曇の見つけた目標なのだそうだ。

缶ジュースに口をつけて、空を見上げる。

蒼く、高い空が広がっている。

そこに一本の飛行機雲がはしっていた。

俺も安曇も目標は遠い。けれどもゆっくりと急ぐことなく歩いていける。

「さて、それじゃ行こうよ。だいぶ遅くなっちゃたし」

「誰のせいだ、誰の」

「細かいことばっか気にしてるとハゲルわよ?」

どんなに遠くてもこの二人でならあきらめずにたどり着ける。

人はこの遠い、遠すぎる空にすらたどり着いたのだから。

「細かくないと思うけど、まあいいか」

「そういうこと」

俺たち二人なら、どこまででも。