言葉

作 桐山さん

「よく降りますね、雪」
この地方で雪が降ることはとても珍しい。年に一回か二回降ればよいほうで、積雪となるとこの何年かはなかった。
「確かに。これだけ降ると電車とかのダイヤが狂いそうだ」
この店の店主である涼さんが答える。自宅兼職場の涼さんには関係なさそうな話だが。
「まあ、俺達には関係ない話ですけど」
「まあ、そうだけど」
俺のにべもない返答に苦笑いで返してくる。
店の窓から見える外の景色を見る。この店にはよく来ているからその景色は見なれたものだけど、雪の積もった景色は普段とは違って面白い。
店内には他の客も居なく静かにオルゴールの音だけが流れている。
「そういえば千音は大丈夫かな」
涼さんが何気なく言う。
千音は今、予備校の冬季講習を受けにいっている。受験生としては当然の行為だろう。それだけでなく、今年の千音は本当に勉強を頑張っていた。隣にいると自分が情けなくなるぐらい。
「なんとかするでしょう?この程度なら電車が止まる事もないでしょうし」
「ふむ。まあそうだろうが、帰りが遅くなると心配だろう?」
「そうですけど、遅くなるのは最近ではいつものことだと言ってましたけど」
最近電話で聞いた話だと、講義の関係上遅くなることが多いと言う。危なくないかとこちらが聞いたときにも防犯対策はしっかりしているからと返された。
「それならいいんだけれど」
「大丈夫ですよ。この寒い中、変質者だって外には出ませんって。それにこの辺りなら変な奴らが集まるような場所もありませんし」
俺の言葉に納得したのか、涼さんはそうだなと一言を言ってカップを洗い始めた。
今店内に居るのは俺一人だが、先ほどまでは他にも何組かの客が居た。
俺にもいえることだが、この雪の中来るのだから、皆物好きだ。
涼さんが仕事に戻っていって俺から話題を振ることもないので、店内には涼さんが洗いカップを洗う音とオルゴールの音だけが響いている。普段なら他にも車のエンジン音などが聞こえてくるのだけど今日は雪が降っているのでほとんど聞こえない。
その中で聞こえるオルゴールの音に耳を傾けてボーっとしていた俺に唐突に、
「最近、お前どうしたんだ?」
涼さんが聞いてきた。
不意に聞かれたこともあるのだが、聞かれたことがよくわからずに考えているとそのまま涼さんは続けて話しかけてくる。
「なんか毎日ここに来てるし、千音との話題も避けてるようだし、何かあったのか?」
「どうしてそんな事聞くんですか?」
「受験生のお前が毎日ここに来ている事、あれだけ仲の良かったお前達が急に疎遠になったんだ。何か理由があるだろうと考えるのが当たり前だ」
その声は真剣だった。こちらの事を心配しているという事がよくわかるほどに。
涼さんの意見は正しいのだろう。
この時期に勉強をしていない受験生は推薦で決まっている生徒かもともと進学する気のないヤツ。そのどちらかだ。
俺の場合はそのどちらでもないけど、こんなところで油を売っている。
「別に理由なんてありませんよ。ただ何となくそこまでやる気が出ないだけです」
「本当にそうか?」
俺の言葉に涼さんが疑わしげに返してくる。
「本当ですよ」
「千音との方は?」
「あいつは本当に頑張ってますからね。俺みたいなやる気のないヤツがそばに居て、邪魔しちゃいけないと思って。それでもちょくちょく電話したりしてますから、疎遠になったなんて事はないと思いますけど」
「そうか?」
「そうですよ」
話を打ちきるように下を向き紅茶を飲む。
いつもはおいしいと思う紅茶が今はまずく感じた。
涼さんもこれ以上追求しようと思わないのだろう。溜息をひとつついてカップを洗い終わったカップを布巾でふき始めた。
確かに理由はある。それは自分でも理解できている。それでもこの理由は人には話せない。いや。話したくない。特にあいつには─
そんな思考をめぐらせていると不意にドアベルが鳴り新しい客が入ってきた。その音を聞いていったん考えるのを止めこの雪の中きたお客がどんな奴かみようと思って顔をあげ入り口を見てみると─
新しく入ってきた客は千音だった。
「おや、久しぶりだね」
入ってきた客が千音だとわかると、涼さんは気軽に声をかけた。
この店の常連であり、何かと相談事を持ちかけられている涼さんの千音に対する対応は砕けたものだ。
「うん、最近いろいろと忙しかったから」
外はすごくさむいよー、といいながら、俺の隣の席に座る。付けていたマフラーをはずしながら、ロイヤルミルクティーを頼んだ。
「隆司も久しぶり」
嬉しそうな顔をしながらこちらのほうを向きながら言う。冬休みに入ってからは一度も顔をあわせてはいなかったからだろう。
「ん、久しぶり」
少しだけ顔を向けて答える。
「でもまさか隆司がここに居るなんて思わなかったな。何処かで勉強でもしているのかと思ってたのに」
「それがここ数日、毎日のようにここに来てるんだ。勉強はいいのかといっても別にいいとかいってな」
「へぇ〜。私なんてなんかこんなに頑張ってるのに。余裕のある人はいいよね」
恨みがましい目でこちらを見てくる。しかし、顔のところどころは笑っている。
「別にそういう訳じゃないって」
「じゃあどういうこと事?」
いつもは冗談でもこんな風に突っかかってくる事はあまりない。たぶん自分が受験勉強を頑張っていて苦労しているのに、俺が楽をしていると思っているのだろう。確かに傍目にはそう感じられるだろうな、そんな事を考えながら答える。
「ただ単にやる気がないだけさ」
「どういう事?」
要領を得ない、そんな感じの顔で聞き返してくる。
「言葉通り。ただ勉強がしたくないだけ」
「なんで?」
「なんでって言われても・・・」
「だって、隆司は大学に行きたいから受験を受けるんじゃいの?」
心底不思議といった顔だ。
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、なんで勉強しないの?」
同じ質問をされても困る。どうしたものか。どう答えたら千音を納得させられるかを考えていたら先に相手が話し掛けてきた。
「なにか、他の悩み事?」
その言葉を聞いて少しだけ相手の顔を見ると真剣な表情をしてこちらを見ていた。
「なんでそう思うんだ?」
「だって、他に理由がないもの」
確かにそこに行きつくのはわかる。親しい相手が急に変わればそう思うのは当たり前だ。
「確かに。でも違う。本当にただ何となくやる気がないだけの話だ」
そう答えて残りの紅茶を飲む。さっき飲んだときも感じたけど、うまくない。
居心地が悪くなってきた。ここに居ると何故か腹が立ってくる。涼さんといいなんでこうも人の世話を焼きたがるんだ。
「うそ」
俺の答えを聞いて少し間を置いて千音が言った。その顔は先ほどまで俺に冗談で非難の視線を浴びせていたときとは違う。
「隆司うそ言ってる。なんで本当のこと言ってくれないの。私じゃ相談の相手にもならないの。そうでも、話したら楽にはなるでしょ?それも出来ないくらい、私は信頼されていないの?」
静かに、でも反論を許さないような口調で千音は言った。でも俺は、
「どうしてうそだなんて思うんだ?」
俺はあえてその口調を無視して聞き返した。
「どうしてって・・・」
相手が反論する前に俺は口を開いていた。
「俺が何を考えているのかすべてがわかるはずないだろう。俺は何も迷い事がないっていってるだろう。だから本当にないんだよ」
そう言えば本当になるかのように俺は大声で怒鳴っていた。
ビクリと千音の肩が上がり、泣きそうな顔をしてこちらを見ている。
その表情に面と向かって続ける。
今の俺に言葉を止める事は出来なかった。
「別に俺が勉強をするもしないも俺自信の問題だ。そのことに理由もなにもない。勝手にそっちが決めつけてお節介を焼かれても迷惑なだけだ」
一瞬、先ほどまでと同じ顔で、時が止まったかのようにしていた。でも時は止まったワケでもなく、千音はその場でうつむいてしまった。
今の俺にはその姿すら腹立たしく見える。だから、そのまま席をたち、入り口に向かう。
「おい、隆司!」
「帰ります」
涼さんの制止も聞かずにレジのところに紅茶の代金を置いて店を出る。ドアを開けた時千音がうつむいている姿が見えたがそのまま店を出た。
店の外はまだ雪がしんしんと降っている。
今まで温かい店にいたせいなのか、それとも来る時に比べて気温が下がったのかはわからないけど、来たときよりも寒く感じられた。


翌日、まだ雪は降っていた。とはいっても夜間は止んでいたらしくそれほど積もってはいない。しかし、この地方でこれだけの積雪は記録的であろう。昨日の涼さんのセリフではないが電車などはダイヤが乱れて大変だろう。
家に居てもやる事もなく、また何かをやる気にはなれない。
そんな状態だからこそイヤな事ばかり考えてしまう。
なぜ昨日千音の前であんな行動をとってしまったのか。
あいつはただ俺を心配してくれていただけなのに、それをあんな風にしてしまうなんて。
あんなことをしてしまった理由はよく分かっている。
ただ単に嫉妬しているのだ。
それもつまらない。
千音は自分が進みたいと思っている目標をはっきりと持っている。それに対して自分は何一つ自信を持って「これをやりたい」と思う事を持っていない。言葉にしてしまえば簡単でそんな事かと思われるような理由だ。ただ、それは俺にとってはとても重い問題だった。
一応、千音とは俗に言う恋人どうしという間柄だ。
この関係はいままではこの先ずっと、無条件に続いていくものだと思っていた。隣にいるのは自分だと思っていた。でも、最近では何かに目標に対して努力している千音を見て、果たして自分は隣にいる資格があるのかどうか不安になっている。そして、その自分に対して嫌気が射すのと同時に、目標を持っている相手に対してどうしようもなく落ち着かなくなり、短気を起こしてしまう。
自分が悪いとわかってはいるのに、上手く制御できない。これではダメだと思い、何とか自分の目標を見つけようと半年以上費やしてきたが、何も見つけられなくて、焦ってしまう。それを繰り返し、今に到る。
そうして、今では自暴自棄になって何もやる気がおきなくなってしまった。
でも心配されないように振舞ってきたのだけど、とうとうそれにもほころびが出始めていたようだ。
そして昨日、一番やりたくないと思って事をしてしまった。
ただ心配してくれていた相手に対し、それを突き放すような事をしただけでなく、相手まで傷つけてしまった。
その事を後悔するのと同時に、ひどい自己嫌悪に見まわれる。
―外に出れば気分も少しは紛れるかも
雪が降る中出かけようと思うのは馬鹿げている。でも今の自分にはぴったりだと思った。
コートを羽負い、傘を持もって外に出る。
何処に行こうか。『ETANAL TODEY』は今日定休日なのでやっていないし、行きたくもない。目的もなくぶらつくのが今の俺には似合っているだろう。


雪の降り積もった街はいつもと違って見える。いつも見ている住宅街や歩道の脇にいつも放置されている錆びついた自転車など、すべてのモノが白く染まって見える。この近くの道は普段から交通量が多くいし、その上こう雪が降っているためにエンジン音も時折しか聞こえない。まるで深夜の街を独りで歩いているような感覚にとらわれる。
そんな中をただダラダラと商店街に向かって歩いていく。あそこに行けば多少は気が紛れるだろうから。
横断歩道の信号に引っかかり、立ち止まる。このまま道を渡れば商店街はすぐそこだが、何となく遠回りをしようと方向をかえ、高台の公園に向かう。
その公園は街北側にある小高い丘の上に造られた場所で、そこの展望台からは晴れた日には街が一望できる。
公園につくとそこも例に違わず真っ白だった。今まで歩いてきた道と違い、足跡一つない。その公園のなかを横切って、更に展望台がある道を歩き、途中で道から脇にそれて歩く。もともとは野山だったところを切り開いて公園にしたものだから、道からそれると当然林になっていて足元が悪くなる。今は雪が積もっているから尚の事だ。それでも林の奥に進んで行くと開けたところに出る。俺がこの公園で一番気に入っているところだ。展望台ほどではないが街が見渡せる。当たり前だが人が来ないので静かだ。夏場暇なときはここで昼寝をするのが気持ちいい。今は雪が積もってそんな事はできないが。
そこにボケーと立って白くなった街を見ていると、何も考えていないつもりが昨日の事を考えている自分に気付く。何故あんな行動をとってしまったのか、どうやってこの次千音に顔をあわせればいいのか、そもそも次があるかなど、こんな鬱鬱とした考えをしないために外に出たのにこれでは意味がない。
ため息を一つつき、当初の目的通り商店街に向かおうかと考えたところで、不意に後ろから肩を叩かれた。
感情が麻痺しているのかいきなり声を掛けられたのに驚く事もなくただ緩慢な動作で降りかえる。
そこには涼さんが立っていた。そのままあきれた顔で言う。
「こんなところで何不景気そうなため息ついてるんだ、お前は」
「なんで、ここに?」
会いたくない人に出あってしまった。会いたくないからここに来たのに、何故この人はここにいるのだろう。
涼さん俺の顔を見て「そんな嫌そうな顔をするなよ」といいながら苦笑いを浮かべた。それから
「商店街に切らしていたモノの買い出しに行ってた帰りだ。それでおまえは?」
答えた。よく見ると傘を持つ手にビニール袋を携えている。おそらくその途中で見かけたのだろう。
「気分転換の散歩の途中です」
ごまかそうにも、上手い理由は思いつかない。それにこの人にはあやふやなごまかしが効かないことはよく知っているので、正直に簡潔に答えた。そうして顔を背けて街のほうを向く。
「そうか、今にも死にそうな顔をしていたから自殺でもするのかと思ったぞ」
そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
「そうですか」
「そうだ」
そのまま、二人で黙りこむ。もともと俺は人に会いたくなかった。だから、しゃべらなかった。涼さんの方もどういう風に会話を切りだそうか迷っているようだ。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。そのほかに聞こえてくる音はない。
実際には数分とそうしては居なかっただろうが、長い間黙っていた。居心地の悪い空間を破ったのは涼さんの一言だった。
「気分転換だって言ったよな」
確認するように聞いてくる。その質問には無言で肯定の意思を表した。
「だったら、ウチに来な」

店は今日は定休日のため入り口はしまっていて、裏口から入る。店の中は薄暗く、すべての椅子が机の上に置いてある風景はアルバイトをやっていた頃以来で懐かしく感じられた。
「その辺に座って待ってろ」
涼さんが電気を付けてから言う。そのままやかんに水をいれて火にかけ、紅茶を煎れる準備をしはじめた。俺は言われた通りにカウンターの外に周り、椅子に腰をかけて涼さんのやる作業をボーっと眺めていた。
いつもと違い、オルゴールの音がしない。そせいか店の中は寂しく感じられた。その静寂の中でやかんが火にかかる音と、カップが何処かにあたる音、そういった涼さんの作業が生み出す音だけが響いている。
そんな様子も見飽きて、店内を見渡す。ほぼ毎日来ている店内には新しい発見はなかった。けど、カウンターの隅に置いてある手製のシリンダーオルゴールが目に止まった。
この店の中で普段流れているオルゴールは大きなディスクオルゴール(友人の業者の人に頼んでディスクを造ってもらうらしい)か市販されているオルゴールのCDだ。そのほかにも小さなシリンダーオルゴールが何個も置かれている。これは売られていたものもあれば、涼さんが楽譜を見て造った物がある。
俺が見つけたものは後者のほうだ。周りを見ても曲名のようなものは一切書いていない
ふたを開けて、聞いてみようかと思ったところ、涼さんが紅茶を煎れ終えて、カウンターの奥からこちらにまわってきた。
「ん、それが気になるのか?」
そう言いながら俺の手からそれをとり、取手をまわし始める。
手製なもののせいか、それともこの人趣味なのか、手回し式のようだ。まわし始めたら曲が流れ始めた。
そのメロディーは聞いた事のない曲だった。
「この曲な、昔いろいろとあって、ダメになりそうなときに聞いてな。それまではなんて事はないただその辺に転がってる歌謡曲だと思っていたんだが、その時はすごく救われたような気分になったんだ。正確にはこの歌詞にだけどな。これを聞いたとき誰にも相談できなくて溜めこんでたことがすぐに解決出来そうなくらいに楽になったんだ」
オルゴールを鳴らしながら話しだす。脈絡もなく話しだされた昔話に面食らって、俺は何も言えない。オルゴール音を一旦止めて涼さんは紅茶をカップに注ぎながら話を続ける。
「『自分と違う事をしている人を うらやんだりもしたけど やっぱり僕は僕だから ダメな自分も好きにならなくちゃ』ってな」
その顔は昔の事を懐かしんでいるようだった。その時の事を、しっかりと解決して、自分の中で納得し、悔いていない。それが出来ていなければこんな表情はできない。俺には漠然とそんな感じがした。
「なんかな、その言葉聞いたときに今まで肩肘張って真似ばっかりしてたのが馬鹿になって、ふっと楽になったんだ」
そればではほんとたいへんだったけどな、とつぶやいて涼さんは苦笑いを浮かべた。
「どんなに自分がダメでも、結局は自分がやらなくちゃいけない。だったら、自分を否定しないで、自分に自信を持ってやった方が、楽しくできるし、結果もよくなるってことにようやく気付いたんだよな」
「どうして、そんな話を俺に?」
わからなかった。どうしてこの人がこんな話をしたのか。最初は何となく自分に当てはまることだから、わかっているのかとも思ったけどどうやら違うみたいだし、それにいくらこの人でも人の悩みまで完璧に当てる事など出来ないはずだ。
だから、正直に疑問をぶつけた。気付いてはいなかったけど、もう居心地の悪さは感じられなくなっていた。
「なに、話題がないから俺の若い頃の話をしようと思っただけだ」
笑いながら涼さんは答える。
「まあ、後はお前の気分転換になればと思ってね」
はぐらかされているのがわかるが、どうでも良かった。別に本当の理由はどうでもよかった。何となく今は正直に相談できる。昨日まではあんなにかたくなに断っていたのに。
紅茶に口を付ける。少し苦い味がしたが、おいしく感じられた。
顔をあげて、涼さんのほうを見る。こちらを優しい目で見ていた。


涼さんに一通りの悩み事をぶちまけたら心がすっきりした。
話す前から、涼さんから貰ったあの言葉のおかげで大対の悩みは片付いていたのだけど、人に話したほうがやはり気持ちは楽になる。
この辺りは千音に言われた通りだ。
「大丈夫か?」
後ろから涼さんが声を掛けてくる。長い時間話しこんで居たようで、外はすっかり夜の戸張が降りていたが、どうやら雪は止んで、空は晴れていたようだ。月明かりがまぶしい。
「大丈夫ですよ。明るく感じますから」
俺が軽い調子で答える。その口調に満足したように、顔に微笑を浮かべて、
「それもあるが、他のことだよ」
といってきた。
確かに、まだ問題はある。受験のこと、昨日の千音とのこと。
でも、両方ともどうにか出きるような気がした。
すぐには無理かもしれないけど。
だから俺は少しだけ笑って返事にする事にした。
それから振り向いて歩き出す。何故か今までの歩調よりも軽く、何処まででも歩いていけそうな気がした。
「がんばれよ」
涼さんの声がゆっくりと胸に染みこんでくる。この人の存在が改めて嬉しく感じられた。


そのまま家に帰っても良かったけれど、俺は遠回りをする事にした。
駅から千音の家に向かう道に向かい、途中で立ち止まり温かい缶紅茶を買い、千音が帰ってくるのを待つ。
缶の紅茶はあまり好きじゃないけれど、この際、我慢する。
そのまま、月を見ながら紅茶を飲んでいると、目の前を何人もの人が通りすぎていった。
みんな一様に奇異の視線を投げかけてきたけれど、気にはならなかった。
紅茶がなくなり、手持ちぶたさになってからどれくらい過ぎたかはわからないほど時間がたった時、ようやく目的の人影が見えた。
向こうもだいぶ前から気付いていたらしく、目の前に来たときには、だいぶ、表情が硬くなっていた。
「勉強、お疲れ様」
一応、覚悟はしていたけれど、こうあからさまに無視されていると流石に気がめいる。
声に出して拒否されるならまだしも、無言の拒否は辛い。
「少し、時間いいか?」
これで拒否されたら今日はあきらめるしかない。いや、もう二度とチャンスはないだろう。だけど、仕方ない事だ。
だけど、千音は拒否はしなかった。
その事を嬉しく感じながら、
「少し、歩くけどいいか?」
と聞いた。別にここでもいいのだけど、何となく一緒にあるきたかった。
千音は相変わらず無言でうなずいて返してくれた
それを確認して俺は歩き出す。後ろを千音がついてきてくれている事を確認しながら。
途中千音の荷物を変わりに持って、俺達は高台の公園まで来た。相変わらず雪は積もっていて寒い。
早く用事を済まさないと俺はともかく千音に風邪をひかしてしまう。
「昨日のことを謝りたかったんだ」
千音の目をしっかりと見て、言う。
「千音が、俺の事を心配してくれていたことを、俺の気分だけで踏みにじってしまった事を謝りたかった。ただそれだけの事だ」
下手ないいわけはしないで理由だけを話す。こちらのほうが俺らしく感じた。
「ごめん。許してくれとは言わない。本当に、ごめん」
頭を下げる。どんな罵倒を聞くつもりだったし、無視されてもいいを思っていた。それでも、ちゃんとしたけじめを付けたかった。
あんな分かれ方だけは嫌だったから。
でも、帰ってきた言葉は予想していたものじゃなかった。
「それで、解決した?」
静かな、でもいつも通りの声。怒っているワケでもなく、だからといって楽しそうな声でもない。
俺は顔をあげてもう一度千音の目を見る。
その目からは薄暗くて感情を読み取る事は出来なかったけど、俺は自信を持って答える。
「ああ、たぶん」
千音はそれを聞いてようや表情を緩めた。うれしそうな、残念そうな複雑な顔をしている。
「結局、私じゃ力になれなかったんだ」
さっきまでと違って声に感情がこめられているのがわかる。
「私は、隆司にとって必要なのかな?」
その言葉が音となって俺の鼓膜を揺らした瞬間、俺は即座にこう言っていた。
「居なくなったら、困る。絶対に、俺の隣に居て欲しい。だからそんな事は言わないで欲しい」
「だったら、なんで何も言ってくれなかったの?」
理由を打ち明ける事は簡単だ。だから、すべてを含めてこう答える。
「千音に打ち明けられるほど強くなかった」
この答えで納得してくれるとは思っていない。だから、残りの事をすべて話そうとしたとき、それよりも先に千音が口を開いていた。
「なら、もっと隆司が強くなって、何か困った時には私を頼りにしてくれる?」
「ああ。絶対に」
その問いがあまりに真剣に聞いてきていたので、俺は自分の言葉を飲みこみ、自信を持って答えていた。
内容はかなり情けなく聞こえそうなものだけど、それでもいいと思える。
「ありがとう」
「なんで、ありがとう、なんだ?」
「どうしても」
そう言って、俺の隣まで歩いてきた、いきなり手を握ってきた。
「それじゃ、かえろ」
そのまま、俺のほうを見て微笑む。確かに用事は終わった。どうやら昨日のことは許してくれたらしい。
何故、お礼を言ったのだろう。お礼を言うのはこちらのほうだ。
その事を聞こうとするより先に千音は空を見上げて楽しそうに呟いた。
「月が冠かぶっているよ」
指を空に向かって伸ばし、俺に見るように促してくる。それにしたがって、俺は空を見上げる。
空には薄く雲がかかっていているけれど、月の明かりは明るく感じられる。
その周りに、注意深く見なければ明かりに消されてしまうような冠が見えた。
「きれいだよねー」
「ああ」
俺はそれだけしか答えなかった。
それだけの会話が嬉しく、懐かしく感じられた。ほんの数日しなかっただけなのに。
「明日、一緒に何処かいこうよ」
「お前、予備校は?」
「うーん、自主休講にする」
「いいのか?」
「いいの」
今までは無条件で続くと思っていた。でも注意深く見ていないと、いつか失われてしまう。
だから、俺は強くなろう。
ダメな自分を好きになれるように。
どんなに遠回りしても、絶対。
「千音」
「ん?」
隣にいる、ダメな俺を好いていてくれる人のためにも。