きみのこえ

作 桐山さん


しとしとと雨が降っている。
梅雨の季節では珍しいことではない。むしろ喜ぶべき出来事だろう。
ここ最近では空梅雨が続いていたのだから。
でもそんな事実よりも今現在の気分の方が重要だと思ってしまう自分たち人間はあまりに強欲なのか。それとも、それが生物としてあたりまえのことなのか。
そんなことを考えてしまうのはなぜだろう。
傘をさし、交差点の赤信号で立ち止まりながらその影から空を見上げる。
その空はどんよりとしていて見ている者の気分を更に重くする。
いつも通る大学への通学路。毎日ほぼ同じ時間に通学するため周りの人の顔も見たことのある顔の比率が多い。
その中の人には自分と同じ様に曇った顔の人が居れば、楽しそうに隣に居る友人と話している人、一人で歩いているのにとても楽しそうな人とそれぞれだ。
楽しそうな顔の人と、曇った顔の人。
その違いは何なのだろうか?
僕にはわからない。
そう思いながら信号が赤から青に変わるのと同時に動く人ごみに押されるように歩き出す。
こんな天気は早くよくなれば良いのにと思いながら。

大学の講義はつまらない。
自分が習いたいと思って選んだことなのに。
理想としていたことと現実の狭間で僕は苦しんでいる。
これを習いたいと思っていた時は、あの苦しい受験勉強にだってがんばれた。これさえ終われば楽しいことがまっているのだと思えば。
しかし、現実ではそうではない。やりたいことだけを、面白いと思えることだけではなく、つまらなく苦しいことも結局は続けていかなくてはならない。
まったく、世の中とはかようも生きることに対して厳しくしているのか。
そう思ってしまうのは僕が怠けているだけだからだろうか?
手はつまらないと思いながらも板書をノートに写し書いている。
つまらないと思い拒絶したいことながらも後に来るテストのことに恐怖しその脅迫観念のみを糧に今この授業を受けている。
ふと、黒板から目をそらし窓の外を見つめる。
雨はまだ降りやまない。

講義がすべて終わり、大学の近くでのバイトも終わり僕はホームで電車の到着をまっていた。
この時間にもなると終電近くになってしまうため電車の本数も少ない。
待ち時間は思いのほか長い。
その待ち時間が終われば家に帰ることができる。誰も居ない、寂しく暗く、寒い空間に。
不意に泣きたくなった。
自分で選び、自分で決めて続けて行けると思ったからこそここに居るのに、なぜ、こんなに辛いのだろう?
あの時、自分の街を捨ててでも手にいれたかったものがこの街にはあるのに。
あの頃にはもう戻れない。
でも、前に進めない。
進むことはできるのかもしれないけど、今の僕にはそれを行えるだけの強さが、意思がない。
電車がホームに向かって来るのが視界の隅に見えた。
その前に飛び込めば、こんなことに悩まずに楽になれる。
そんな考えが一瞬頭をよぎった。
その選択枠はとても魅力的に感じた。
生きることの意味。生き続けるための意思。
今の僕には無い。
疲れた思考の中でそう結論付けた。
だから、その前に飛び込もう立ちあがって―――


出来なかった。飛び込む直前にになって、急に怖くなってしまった。
何故かはわからない。死に対する漠然とした恐怖がとどめたのか、それとも別の理由なのか。
死ぬこともかなわない。前にすすむこともかなわない。
臆病な僕は、救われることすらないのかもしれない。
そんなことを考えながら、のろのろと電車に乗り込み、家に向かった。

自宅に最寄りの駅でいつもどおり降りて、改札を通るとやはりまだ雨は降っていた。
この雨の中家に向かって歩いていくことは簡単だけどそれをしなかった。
なんとなく、もう少しこの場所にいようと思った。
どうせ気分が最悪なら、そこのそこまで落ち込むだ方がまだ気持ちが良いと思えたからだ。
近くにある自販機で缶のコーヒーを買う。
あまりおいしくないからここ最近では買うことがなかった。
蓋を空けて一口飲む。
やはり、おいしくない。
何もかもが嫌になってくる。
僕に何かを強要してくる現実に。
すべての落胆の素となる理想に。
死を求めても尚、それに恐怖している自分に―

不意に、胸のポケットに入れておいた携帯電話が震えた。
主にマナーモードにしているので音はならない。
すぐに止まったのでメールの方だろう。
僕のメールアドレスを知っている人間は少ないし、その大半がただなんとなく聞いただけで一度も送ってきたことは無い。もちろん、僕の方からも送ったことは無い。
だから、来るものとしては迷惑メールのみだ。
ただ、昔からの友人を除けば。
今の気分では読む気にはなれない。でも、のろのろとした動きで携帯電話を取りだしている自分が居ることに気づく。急用だったらどうしようという脅迫観念があったのかもしれない。ただ、誰でも良いから独りで居たくない。この場に居ない誰かに救いを求めて居ただけかもしれない。
そのメールの差出人は、高校の時の恋人。一番の友人。僕がこちらに出ていくと決めた時、周りが反対する中唯一理解し後押ししてくれた親よりも信頼できる理解者。
メールの内容はこうだった。
―今日、高校の頃の同窓会をやったんだけど、君が居ないから楽しくなかったんだ。ちょっと違うかな、楽しかったことは楽しかったんだけど、何か物足りない感じ。だから、二次会があったんだけど断ってきたんだ。久しぶりに声が聞きたいから、電話しようかと思ったんだけど忙しかったら悪いからメールにした。もしよかったら連絡ください。


涙が出てきた。
今までみたいに泣きたくなったんじゃなくて、泣いた。
自分を少しでも必要としてくれる人が居てくれることがうれしかった。
信頼できる相手を持っていたことを自分の辛さから忘れていたこと、そして君に誓った約束を果たせずに、挫折しそうになったことが悔しかった。
―この街に来ても、君のことを忘れずに頑張るということ。自分の信じたことを貫き通して、胸を張って帰るということ。
僕は久しぶりに泣いた。この街に来て初めて感情を表に出して。
声をかみ殺して、涙だけを流して。

雨はいつのまにか止んでいた。一通りむせび泣いたことで心がすっきりしたような気がする。
雨上がりの駅の軒下から見える空には雲が所々に見える程度で今日が満月だということがはっきりとわかる。
泣いていたのは三十分くらいだろうか。時計を見てさっきのメールに書いてあった時間までならまだ間に合うことを確認する。
それから携帯電話の電話帳から君の名前を探す。
何を話そうか。
挫折しそうになったこと。
君のことを忘れてしまいそうなほど辛かったこと。
すべてを包み隠さず話そう。
そのことで君にどんなことを言われてもかまわない。
君の声が今は聞きたい。
それから最後に一言こう言おう。

―君がいてくれてよかった。