「あきらめな」
そういってその黒い影はその手にしたモノを降りおろした。
その行為が俺にはわからなかった。
まだ幼かった俺にはその黒い影の存在すら理解できなかったのだから。
ただ、本能的に恐怖だけは感じていたが
ただひとつその当時の俺にもわかったことがひとつあった。
親父がその日を境に居なくなった。
つまり死んだということ。
死という概念をまだ認識できなかった当時はなぜ親父が居なくなったのかわからなかった。
ただ、周りの人間が「かわいそうに」と言っていたのは確かだが。
今の俺にはその影が何かよくわかっている。そして親父がどうなったのかも。
なぜなら、その影そのものに自分がなっているからだ。
そう、死神という存在に。
生きる意味
「どうして、この子が死ななければならないんですか?」
真っ白な病室の中で、女性の声だけが響いていた。
その声は悲痛なもので泣きながらと言った感じだ。
いや、実際泣いているのだろう。
その病室のベッドにはまだ幼い、、せいぜい小学生低学年といった子供が寝ていた。
いや、寝かされていたと言った方が良いだろう。
もうすでに死んでいるのだから。
母親と思し気その女はそれが信じられずにいるのか、医者に食って掛かっている。父親と思し気男の方は割と冷静に事実を受け止めているのか、その母親を押し止めているのが見える。
逆の場合もあるが、割とよく見る光景だ。こういった場面ばかりに遭遇している俺のような仕事をしていれば。
普通の感性の持ち主ならば同情を禁じえない状況となるのだろうが、あいにくと俺にはそんなものはもう既に残っていない。ただこの状況を一瞥し自分の仕事を始めることにする。
母親や父親、そして医者の方からベッドの上、正確には子供の亡骸の上に浮かぶ白い影を見つめながら声をかける。
「俺の言葉がわかるか?」
こういった小さな子供の中には自分がどのような状況に巻き込まれているのかわからない場合がある。そのため、状況を認識させる必要があるのだ。
「ぼく、どうしたの?」
案の定、やはり状況がわかっていない。
その目は未だ落ち着きを取り戻していない両親の方に向けられている。
「君は今この場で死んだ。ただ、それだけだ」
感情も込めずただ事務的に事実を告げる。
最初はその言葉を飲み込めない様子だったが、次第にわかってきたようだ。
「うそだよね?」
その顔にはどう表現したら良いのかわからない、泣き顔をともつかない、でもそれが一番近いような顔をしている。
否定してほしいのだろうが、俺は何も言わない。
そのことを肯定と受け止めたのだろう。生前はなかなか賢い大人びた子供だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は子供の様子を見ていた。
「だった、まだやりたいことも何もやっていないんだよ。やりたいこといっぱいあるのに、なんで?なんでなの?」
事実を受け止めてそれでも信じられないから泣く。小さい子供ならなおさらだ。大人でもよくあることなのだから。
「残念だが、あきらめろ」
昔聞いた、今でも心の奥底で残っている言葉を子供につぶやきかけ、俺は手に持っていた大鎌をその子供向かい降りおろす。その子供が最後に、言った言葉を聞きながら。
「いやだよ、死ぬのは」
「相変わらず、無慈悲なことで」
仕事を終え、回収した、先程の子供の魂を引き渡すため俺はその案内人―俺にとっては一応この仕事の上司にあたる―と会っていた。
「慈悲を与えてどうするんですか?」
仕事を見ていた上でその感想をいった上司の言葉に対してそう返しておいた。
死者に対して慈悲も無慈悲も無い。それが俺の持論だ。
「そりゃそうだがね。もう少し、死と言うものを理解してから刈り取ってやれば良いのに」
「時間の無駄です」
「時間・・・ね、悠久の刻を持ちながら何を言っているんだか」
そう言いながら俺から魂を回収していく。回収と言っても、俺が手に持っている(果たしてそう言えるかどうかは微妙なところだが)魂を手渡すだけなのだが。
「しかし。あんたも長いね、この仕事」
魂の様子を確認しながら案内人は呟いた。
「そうですかね」
「ああ。体外は二、三十回。長くても五十回仕事をしてみんな転生するんだがね。あんた、何回目だい?」
「さあ?」
死神になってからのだいぶ長いことはわかっているが仕事の回数なんて数えていない。ただ下された命にしたがってこの時までいたのだから。
「それだけ不真面目だってことじゃないですかね」
「ふーむ。まあ、そうとは思えんが、そうなんだろう」
魂の状態を確認し終えた回収人はよくわからないことを口にして、
「次の仕事は、まただいぶ後だそうだよ。それまで好きにしていろと上の方がいっていたよ」
そう言伝てその輪郭を薄くしながら消えていった。
普通の死神―回収人には暇など無い。終わったらすぐに次の魂を回収に向かわなければならないくらい忙しいと以前顔を会わせた奴に聞いたことがある。
こういったことから、俺は結局落ちこぼれなのだろうと思いながら、月明かりで明るくなった空をゆらゆらと漂う。
明日から何をして過ごそう、などとは考えずただ夜空に浮かぶ自分よりも永い時を過ごしてきた傘をかぶった月を見上げる。
なにも考えずにただ過ごす日々を幾日も過ごしてきたのだ。
これからもそれを過ごしていくのだろう。
果て無き悠久の時を。
翌日、俺は日があがるまえに適当な大木を見つけてその枝に腰をおろして過ごすことにした。
太陽の光を見ながら漂うのはまぶしすぎるのが理由だ。特に、ぎらぎらと輝く夏の太陽はきつい。
次の仕事までどれくらいの暇があるのかは知らないが、まあどうってことは無い。永い時を過ごす中で時間の感覚などとうの昔に麻痺している。
大きい木がある割には、その周りには人の量が多すぎるのが気になるところだがそれを除けば快適な場所を見つけられたのは幸運なことだ。今まで暇をつぶすための場所は限られていたし、新しい場所には別の人の往来もある。そういったモノを観察しているだけで結構な暇潰しになる。
それにしても変な場所にこの木は生えているものだ。周りには取り囲むように建物が造られている。これでは何かを封じ込めるために造られているようにしか見えない。
そんなことを考えながら建物を眺めていたせいで、俺は人が一人木に近づいてくることに気づかなかった。それもこちらを眺めながら。
「そんなところにいたらあぶないんじゃないですか?」
声をかけられて一瞬、誰に声をかけているのかはわからなかった。まず俺ではないという先入観があるからだ。
そのせいで、まず確認したのは他に誰かがこの木に登っているのではと辺りを見回す。しかし、誰もいる形跡は無いのでどうしたものかと首をかしげていると、
「あなたですよ、今首をかしげている」
と、今の俺の状態をそのまま指し示してくれる。
ということは俺のことなのだろうが、しかし・・・
「俺のことが見えるのか?」
確認のため、聞いてみる。
「どういった意味ですか?」
その声の主はこ首をかしげながら聞き返してきた。
これが彼女、詠音との出会いだった。
確かに、この世ならざるものを見える人間は存在している。生前の俺もそうだったからわかる。が、そういった存在に軽々しく声をかけることはまず無い。それがそういったものだと気づかずに声をかけることはあるが。
「俺のことが見えているのかと聞いているんだが?」
先程の問いを同じことをもう一度繰り返す。
「ですから、それはどういった意味なのですか?まるであなたが見えていないような言い方ですけど」
「その通りだ」
「はい?」
「俺は普通、見えてない」
そう言っても相手は理解できていないようだ。えーと、と言う呟きが聞こえてきそうな顔をしている。
「簡単に言うと幽霊だ」
そのまま放置しておいてもよかったのだが、声をかけてしまった以上仕方なく噛み砕いて説明しておく。
「あ、なるほど。そうだったんですか」
ようやく合致がいったようだ。
「変わった幽霊さんですね。昼間から化けて出るなんて」
変わっているのはお互い様だと言いたいところだが、何も言わないでおく。
「それで、幽霊さんは昼間からそこで何をしているのですか?」
「別に、特には何もしていない」
突き放すように言う。こういった奴とまともに相手することは今までなかったからどう応対したらよいのかははっきり言ってわからない。正直とっととどっかに言って欲しいくらいだ。
相手のほうはそんな俺の心情を知ってか知らずか、俯いて何かを考えているようだ。変なものに声をかけてしまってどうやって別れたものかとでも考えているのだろう。
ようやく、考えがまとまったのか顔を上げて口を開く。
「お暇でしたら、少し私とお話でもしていただけませんか?」
「は?」
思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「なぜ?」
「幽霊になられて方とお話できる機会なんてそうありませんから」
幽霊と会話したいと言う奴がいるなんて、そうとうそ死者に対しての未練があるやつか似非霊能者ぐらいだと思っていたんだが。先程の熟考はこれを口にするべきかどうかを考えていたのだろうか。
「いけませんか?」
どうやら黙っていたことを拒否だと思ったらしい。その表情には変わったところは無いが声が少しだけ沈んでいるように聞こえる。
「付き合おう。どうせやることもない」
気づいた時にはこう答えていた。なぜこんな答えを返していたのかは自分でもわからない。
「ありがとうございます」
そういって木と遊歩道みたいな通路をはさんだベンチに彼女は腰かけた。ちょうど俺を横から見るような構図だ。少し会話をするには離れている気もするがそれよりも気になるのは・・・
「しかし、いいのか?」
「なにがです?」
「俺は他人には見えていないし声も聞こえていないということだ」
簡単に言えば彼女が独り言を言っているのと同じことだ。それもかなりの大声で。それは世間体にかなり悪い印象を与えることになる。
俺の意図していることに気づいたのか、そのことですかと一言前置きをした後に、
「私は、既に異常者だと思われていますのでどうということはありませんよ」
それにここはそういった人の集まる場所ですから、とも言った。
そう言われてようやくこの場所の建物の配置に合致がいった。ここは封じ込めようとしているのだ。そのような人を。
「そうか」
それを聞かされたからといって、同情するような気分は浮かんでこなかった。したところで何の意味も無い。
「そういえば、自己紹介をまだしていませんでしたよね。高浜詠音を申します」
そういってこちらに少しだけ頭を下げた。話題を変えたかったためにやったのかどうかはわからないがどうにも独特のペースの持ち主のようだ。
「それで、幽霊さんのお名前は何と言われるのですか?」
「名前なんて無い。好きに呼べ」
生前の名前はあったが、それを名乗る気は無い。既に死者を運ぶものとしての契約の際にその名前は献上している。それに、あまりなれなれしくするのも嫌だった。
彼女、詠音は少し困った顔をしていたがすぐに気を取りなおしたようだ。
「それでは、幽霊さんと呼ばせていただきますね」
その申し出に俺は無言で肯定を示した。
その後、詠音はたわいも無い世間話をずっと話していた。俺からは話すことはなくそれをなんと無しに聞いていて、気のない相槌を打ったり時々口をはさむだけだったが、それでも彼女は満足なのかずっと楽しそうに話していた。
気がつくと辺りの日は傾いていて、もうそろそろ部屋に戻らねばいけない時間だといって詠音はベンチからたち上がった。
恐らくは昼を回っていただろうがそれでも四時間近く話していたことになる。
「それでは私は部屋に戻りますけど、幽霊さんはどうするのですか?」
「ここでのんびりとさせてもらうよ」
「寒くは無いのですか」
「幽霊に聞く台詞か、それは?」
一日中話していたわけだが、やはりこいつの感性は理解できない。まさか死者である俺に寒くは無いかと聞いてくるとは。
詠音はそれもそうですねと言って小さく笑いそれから、
「私は明日もここに来ますけど、幽霊さんは明日も来ますか?」
と聞いてきた。今日これだけ話してもまだ話し足りないことがあるのか、それとも今日あまり話さなかった俺の話しが聞きたいのかはわからないが、まあどちらでもいいか。
「暇なら、ここにいる」
仕事がなければやることがない。死者となっても生きている人間と同じようなことをしているのだと改めて気づかされた。
「そうですか。それでは」
軽く、頭を下げてから詠音は病棟に入っていった。それから辺りは急に静かになる。
一日、誰かと話していたのは久しぶりのことだ。死んでからは仕事の話しで案内人と話すか、同業者と一言二言言葉を交わす程度だった。
懐かしいわけでもないが、もし明日も暇ならこうしているいるのも悪くはないと思えた一日だった。
その後、一週間以上もの間、案内人からの連絡はなく、毎日詠音との話しをすることになった。
その内容は、最初とあまり変化はなかった。
ただ、日常の中で起こった些細なことを、例えば看護師(最近名前が看護婦からこう変わったことを教えられた)の人が何をした、どのようなことを一緒にしたなどのたわいもないことばかりを延々を話しつづけ、たまに俺の方にも話しを振ってきて意見を求められたりもした。
そんなことの繰り返しだったが、今まで気の遠くなるような時間をただ独りで過ごしてきた俺にしてみればかなりの有意義な時間の過ごし方だったと言える。
無駄なことでもあるが・・・
「そういえば、以前暇だったらといっていましたけど、幽霊さんに暇じゃない時があるのですか?」
この奇妙な会話が始まってからもうすぐ二週間になろうという時、不意に詠音が聞いてきた。
確かはじめた会った日(向こうからしてみれば遭ったと言った方が正しいかもしれないが)翌日もまたいるかと聞かれたときの答えだ。
そんなともすれば忘れてしまうような些細な台詞を覚えていることに感心しながら「ああ」と軽く答えてる。
「一応、するべき事はある」
自分が死神だということを正直に答えてもよかったのだがなぜかためらわれた。
はぐらかした答えであるのだが、詠音のほうは特に聞き返してはこなかった。
「そうですか。今まで会った方々はただそこに居るだけでしたが、私の話に付き合ってくれていることといい、幽霊さんはやはり変わっていますね」
いままで会ったことのあると言う霊は恐らく地縛霊や怨霊の類だろうと予想がつく。俺のような奴を除けばこの世に残っている魂は転生を拒否し、この世界に縛られつづけ存在する理由すら忘れてもなおこの世界に留まることを望んだ奴らだけだ。確かにこうなったものに対して声をかけてもまともな返答は帰ってこないだろう。
「俺が変わっているんじゃなくて、おまえが変わっているだけだ」
今まであった霊と俺が違うといった問い。それに対して俺はこう答えていた。詠音は「そうでしょうか」と首をかしげていたが、そこに付け足す。
「大体、霊に対して話し掛けようとすること事態が変わっている。それも聞いていた限りでは俺に話し掛けた前にも何度も試しているようだが、それだけ話し掛けているのなら霊に話し掛けた場合どうなるかも体験していると思うのだが?」
怨霊になる前の浮遊霊の状態ならばまだましだが怨霊ともなればただ自分の願いを口にするだけ、最悪その恨みの対象を勘違いしてくる場合がある。そうなったら、ただではすかされない。
「そうですね。それで何度も周りの方にもご迷惑をおかけしたこともありました」
それならどうして、そう問い直そうと詠音の方を向き、口を開きかけたとき、それを予期していたかのように、詠音はこちらを、俺の目を真っ直ぐ見て「それでも、見えていることは事実ですから、そこから目をそらす気はありません。それに、きっとこれにも何か意味があるのでしょうから」としっかりとした口調で言った。
そのときの詠音の表情は、意思を持った強さを含んだものだった。
俺はこんな表情を浮かべられる人間を今までの永き時の中で見たことはなかった。
だから正直にそれを見れたことに対して正直にうれしく思えた。
それと同時にそんな強さを持てた詠音に対して羨ましいとも感じていた。
その翌日、もう既にいつもどおりと言えるほどの状態で詠音とはなしていたとき、いつもと違う感覚がした。
普段ならば詠音と話している間にも頻繁に医者や看護師が詠音に話し掛けてくるのだが今日はそれが少ないということに気づいたのはその違和感を覚えてからだいぶ後だった。
その理由を詠音に聞いてみたところこんな返答が帰ってきた。
「なんでも、この病院にいた方が一人自分で命を絶ったそうです。それでそちらのほうに大勢の方が行っているのではないでしょうか」
要するに、自殺者がでてそれの処理に追われているという事か。
「なるほど」
それだけ言って二人とも押し黙る。興味本位で聞いたことからまさかこんな返答が帰ってくるとは。俺自身が聞きたいと願ったことなのだが、後悔する。
「なんででしょうね?」
俺が黙っていると、不意に詠音は口を開いた。
「なんで、自ら自分の命を絶ってしまうのでしょうね。与えられたモノの意味を理解する前に。行きたいと願っても生きていくことのできない人が居るというのに」
その独白とも質問とも取れる言葉に俺はなんの答えも返せなかった。
なぜ生きているのだろう
生きる意味などないのに
生きていても仕方ないのに
死んでしまえばこの退屈な日常からから開放されるのだろうか?
だったら、死のう
この世界から開放されるために
自らを救うために
理由などそれだけで十分だ
死ぬのは簡単だ
ここから飛び降りれば一瞬ですむ
だから俺は飛び降りる
まるで自分は空を飛べると信じているかのように
飛べるはずはない
眼前には地面が迫る
ふっと、意識を取り戻してあたりを見渡す。今までいた病院の中庭に在る木の枝に今までどおり座っていた。
「くそっ」
長い夜の間に意識が生前に戻ることは今まであることだがまさかあの瞬間を思い出すとは。
手を額に当てたまま一度頭を振り、木の幹にもたれかかる。
そのままの姿勢で何を考えるでもなしに空を見上げていると、不意に声をかけられた。
「久しぶりだが元気にしていたかね?」
「まあ、ぼちぼちと」
どうもまともに相手をする気にもなれなくておざなりの返答を返す。気を悪くしたかとも思ったがその返答に対して案内人はおや?っとでも言うような表情をした。
「なにか?」
「いやなに、君がそんなことを言うとは思っていなかったのでね」
俺が怪訝そうな顔をしていたのだろう。案内人は珍しく笑顔で、
「君なら死者に対しての言葉ではない、とでも言うかと思っていたのだが」
といった。
確かに、冷静に考えてみれば今までの俺ならば、そう返していただろう。
気分が悪いのが理由と考えたがそうじゃない。今まででも生前の記憶を思い出してこういった気分になったこともあったがそのときは普通に返していた。
それがどうして変わってしまったのか、それを考えようとして案内人の言葉によってさえぎられた。
「まあ、君の変化はいい事として捉えるとして、回収人として仕事だ」
仕事―その言葉を聞いて気持ちを入れ替える。今までは暇を持て余していたが、これが俺の本来この世に在りつづける意味である。
「君が次に回収する魂だが、それは―」
「幽霊さん、今日は元気がないですね」
昨日と同じように中庭で詠音と会話をしていると不意にそんなことを言われた。
「そうか?」
俺としてはいつもどおりの会話をかわしていたと思っていたのだが、どうやら相手からしてみれば違うように感じられたらしい。
「はい」
しかも断言されてしまった。なぜそこまで自信が持てるのかは知らないが、
「どういう風に?」
とりあえず聞いてみておく。
詠音は少し斜め上を見るような感じで小さくうーんとうなりながら考えてから、
「何か迷っているような感じがします」
といった。
「それと、何か後ろめたさも感じられますね。どうしたんですか、一体?」
―次に回収する魂だが、それはこの建物の中にいる人物の魂だ
「幽霊さんがどんなことで迷っているかはわかりません」
―その人物が死ぬ原因は火の不始末による火事
「それに、私のには力になれないことかもしれません」
―そこに取り残されることとなって死を迎える
「話してみれば、何か解決の糸口を見つけられるかもしれませんよ?」
―その人物の名前は・・・
「別に、たいした悩みじゃない。ただ、今晩ここを離れることにした。ただそれだけだ」
―高浜詠音だ
「そうですか。次は、どこへいかれるのですか?」
詠音は少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、すぐにいつも通りの微笑みを浮かべて聞き返してきた。
「さあ、特には決めていない」
努めて普段どおりを装うとし、自分が今までどういった風に会話をしていたのかがわからない。
いや、意識している時点ですでに普段どおりではないことはわかっている。ただ、先程詠音に指摘されたとおり、迷いと後ろめたさがあることは確かだ。
今までの自分では考えられなかった感情。
何でこんなことを考えるのかがわからない。ただ、今までと同じように魂の回収を命じられただけなのに。
「ここを発たれるのは、今すぐに。というわけではないのですよね?」
俺の演技がうまくいったのか、それとも気づいていてあえて触れなかったのかはわからない。ただ、なんとなく後者だな、という感じはした。俺が言わないなら無理には聞かない。そういった考えなのだろう。
「ああ、今晩と言ったはずだけど」
「それならば、今日一日、もっと楽しく話しましょう」
そういって、詠音はきれいに笑っていた。
その表情は、何もかも受け入れていけるという悲しい強さが感じられた。
その後の会話はほとんど今までどおりの内容をした。ただ今までよりも詠音の口数が多かったように感じられはしたけれども。
「また、ここに来ていただけますか?」
別れ際、いつもどおり病室に戻ろうとして立ち上がった詠音が最後にこう聞いてきた。
「さあな。気が向いたら、また現れるさ」
もう訪れることもない。詠音と話すことはない。それを知っていながらこう答えてしまっていた。
それを聞いた詠音の顔は多分忘れられないだろう。それぐらいうれしそうな顔をしていたのだから。
その夜、俺は病院の上で夜空を見上げながら漂っていた。心身ともに。
何を迷うことがある。自分は今までも幾人もの人の魂を狩り取ってきたではないか。そう、死神と呼ばれるに相応しいほど無慈悲に。そう自分に言い聞かせる。
しかしどれほど言い聞かせようともなぜか決心がぐらつく。
なぜ自分が彼女の魂を狩らねばならないのか。
どうして彼女か死ななければならないのか。
思考がまとまらない。
決心と迷い。
その二つの間で漂いながら時間ばかりが過ぎていく。
そして刻は満ちた。
上空から見ていて、最初はほんの小さな明かりが病院内に灯った程度のものだった。
しかし、その光は徐々に、しかし確実にその範囲を広げていく。
やがてその光は傍目からわかるほどの炎となり、徐々にその腕を伸ばしていった。
なぜ鉄筋コンクリート製の病棟にこうも早く火が回るのだろうとぼんやりを考えているうちにも火の手は回りつづけ、やがて病院全体を飲み込んでゆく。
ただ、運がよく発見が早かったのか炎が小さなうちに大半の入院患者は避難を開始していたようだった。
だけど、避難を終えた人の中に詠音の姿はない。
それを確認した上で俺は案内人に指定された場所へと向かう。
―運命を変えることは許されない。それだけは覚えておけ
この仕事をはじめる前に聞かされた言葉を思い出しながら。
指定された場所。それは詠音の病室だった。仕事をしていると病室という場所にはよく足を運ぶのでその中は多少の変化こそあれ概ね見慣れたものだった。ただ、周りを炎に取り囲まれていなければ。
ただ、まだ完全に火に飲まれてはおらず、まだ詠音も存命していた。
「変ですね、幽霊さんの幻覚が見えます」
「幽霊自体が幻覚のようなものだと思うが」
俺の姿を見つけた詠音はこの状況下でいきなりとぼけたことを言ってのけた。
詠音はベッドに寝たまま上半身を起こした状態で俺のほうを向いている。
「声も聞こえますね。ということは本当にそこに居るのですか」
「そうだ、正確には在るといったほんが正しいと思うぞ」
この極限状態にもかかわらず、詠音は普段と変わらない。死を受け入れているのか、それとも死を理解していないのか。
俺は詠音のベッドのすぐそばまで近づく。
「幽霊さん、いつもとは違う格好をしていますね」
「仕事着だ」
「仕事着。それがですが?それじゃまるで・・・」
「そう、ご想像のとおり、俺は死神」
詠音の言葉をさえぎって俺自身の口から伝える。そうすることで決心をするかのように。
「今この場に、おまえの魂を狩るために来た」
そういいながら、俺は手にもっていた大鎌を詠音の首筋に向ける。これで魂を狩れるわけではないのだが、こうすることによって相手が怖がる。怖がってほしい祈りながら。
その祈りは届くことなく詠音の表情には恐怖などは微塵も見られない。
「死神さまなら、なぜそのような悲しそうな顔をされるのですか?」
悲しそうな顔?
俺が浮かべているのか?
そう問い返すまもなく、詠音は続ける。
「私の魂を狩るのなら、そんな悲しそうな顔をしないでください。いつも私が見ていた、幽霊さんの表情を、最期の時まで見せてください」
そういいながらいつものように微笑を浮かべこちらを見ている。
その表情は穏やかで、これから不条理な死を迎えようとしている者の顔には見えない。
「なぜだ?」
「はい?」
「なぜ、そんな顔でいられる。おまえはもうすぐ死んでしまうのだぞ。この世からその生を失い、存在をなくすというのに、なぜそんな穏やかで居られる?」
大鎌を向けたまま、顔を直視したまま問いただす。
理解できない。今までこんなやつを見たことはない。
確かに穏やかに死んでいったものは居る。だがそれは揃って天寿を全うしたような老人ばかりだった。こういった状況ではまずいない。
「死にたくはないと思わないのか?生きて何かがしたいとは思わないのか?どうしてそんな風に死を受け入れられるんだ?すべてを失うんだぞ、すべてを?」
「怖いですよ」
俺が普段にはなく、感情をぶちまけるように激しくいい、尚も続けようとしていたのを詠音の静かな一言がさえぎった。
「確かに死にたくはありません。でも、すべてを失うわけではありませんから、受け入れられます」
すべてを失わない?どういうことなのか理解できない。その考えが伝わったのかわからないが、そのまま詠音は続ける。その表情は先程とは違い厳しいものだった。
「私の存在は記憶されつづけますから。この病院でであった人。それ以前に出会った人。その記憶の中でひっそりと在りつづけます。それに―」
そこで一呼吸置き、ふっと表情を緩めいつもの微笑みを浮かべ続ける。
「私の存在を認めてくださった幽霊さん。いえ、死神さまの中で、この世で悠久の刻を在りつづけられるのですから」
「それだけで、それだけの理由で受け入れられるのか?」
「少なくとも私には。今まで否定されつづけた私にとっては十分な理由ですよ。ただ、なぜ幽霊さんたちが見えるのか、その理由がわからなかったのが心残りですけど」
そういって少しだけ残念そうな顔を浮かべる。
恐らく俺はそうと間抜け顔をしているだろうとどこかで冷静に考えていた。
ただそれだけの理由で、目の前のヒトは死を受け入れられるという。ただ一人の、それもこの世に存在しないあやふやな奴が自分を認めてくれた。ただそれだけで。
あきれたのか、納得したのか、気が抜けたのか、それともうれしかったのか。
どういった感情かはわからないし冷静に分析する気にもならない。
気が付くと俺は構えていた大鎌をだらりと下げていた。
と、同時に火の手が病室の中、しかもすぐ近くまで回り始めていた。詠音の座っているベッドにも既に燃え移り始めている。
「どうせ死ぬのであれば、苦しまずに死んでいきたいのですが」
詠音の言葉で炎のほうに向いていた視線を戻す。既に決心はついている。だから早くしてほしい。口で言っていなくとも、目が語っていた。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。
定刻よりは早い。本来ならば死して魂が抜け出した後に回収するのが定石であり、これを破ることは運命を変えることになる。
だけどそんな些細なことはかまわない。
だから俺は大鎌を両手で構えなおした。
もう、迷うことはない―
病院の焼けるさまを眼下に置きながら、俺は夜空に浮かぶ月を見ていた。その月はいつか見たときのような満月だった。
「どうして、あんなことをした」
背後にいた案内人が聞いてくる。
「さあ、どうしてでしょう?」
あんなこと。確かになぜしたのだろう?
羨ましかったから?
願いをかなえてやりたかったから?
そのどちらでもないような気がして、どちらでもあるような気がする。
「理由が必要なんですか?」
「いや、君がこんなことをするなんて考えていなかったものでね」
「確かにそうかもしれませんね」
「ああ」
自然と沈黙が支配する。ただ二人して地上の様子と空の月を見ている。
どれだけそうしていたのかはわからないが、不意に案内人は口を開いた。
「魂は回収させてもらう。一応それが決まりだ」
そういって、案内人の手が俺のほうに差し出される。
だから俺もその手に向けて手を伸ばす。それが別れになることは知っていたけれども。
「さようなら、詠音」
翌日の朝刊の地方欄にこの病院の火事の記事はひっそりと載っていた。
原因の推測やこの病院の特徴などそれから死傷者の数。
負傷者、10
死者、0と。
俺が死神になった理由は弱かったからだ、と彼は言っていた。生きることよりも死ぬことに逃げることで楽になろうとした結果だ、と。
彼から聞かされたことは少ない。実際一ヶ月近く話したわけだだけれども、彼から話してくれたことはほとんどなかったから。
でも、彼は最期にこう言ってくれた。
詠音に生きてほしい。生きて死神たちを救ってやってほしい。多分ほとんどの奴は大丈夫だろうけど、俺みたいな奴は居るはずだから。そいつも俺みたいに救ってやってほしい。
彼は私に死を奪い、生を与えた。本来ならばその逆だというのに。
実際、彼が存在していたのかはわからない。本当に周りのみんなが言うように私の作り出した幻想かもしれない。
それでも、いいと思う。それでも彼が私を認めてくれたのには変わりはない。今までの私を否定せずに。
だから生きていこうと思う。私が生きる理由はそれでいい。
「あら、気持ちよさそうね」
仲のいい看護師さんが声をかけてくる。
そう、今居るのはあの火事から唯一焼け残った中庭に在る木の近くのベンチ。
なぜこの木だけ焼け残ったのか、それはわからない。ただ私はこの木の近くに横たわっていた。
「天気もいいし。ここ、こんなに日当たりがよかったのね」
私はええ、とだけ返す。
あの後、この病院が復旧するまでの間別の病院に移っていた。その間に私は精神が正常になったと診断され、退院している。
だからここの患者ではないのだけど、たまに仲のよい看護師さんに会いによく訪れるのだ。
目的はそれだけではない。
もうひとつの目的は、ここに、このベンチに座ってこの木を眺めるために。
「あら、なんか、すごくうれしそうね」
その木を見ていたら自然を表情が緩んでしまっていたのだろうか。隣からからかわれる。
「なにか、いいことでもあったの」
「はい。正確には“あった”ですけど」
あった?看護師さんは聞き返してきたけど、答えずにおく。
この木だけがあの時の記憶を確かにしてくれる存在。だから自信がなくなったとき、不安になったときにここにくるのだ。
生きる理由をくれた人に、生きてほしいといってくれた人に会うために。
「私、がんばって生きていきますよ。幽霊さん。いえ―」
それは最期に残してくれた彼からの贈り物。